銀盤カレイドスコープ6巻が今までと違ったこと

 銀盤カレイドスコープの6巻

には、今までの1〜5巻とは大きく違う点があります。それに言及している方は非常に少ないです。非情と言っても良いでしょう。みなさん忘れていませんか?あのレギュラーキャラを?

 そう、「銀盤カレイドスコープ」のライター、新田一也を。

 主役が変わろうとも、毎回必ず登場してラストを締めていた新田一也。しかし6巻に登場しないばかりか、登場しなかったことが話題にもなりません。どうした、新田一也!頑張れ、新田一也!

 次巻、新田一也のリベンジなるか、に注目したいと思います。

探偵の物語

 海燕さんのお薦めで、法月綸太郎さんの「頼子のために」

頼子のために (講談社文庫)

頼子のために (講談社文庫)

を読んだのですが、おぉなるほど、これは森博嗣さんの「すべてがFになる」とはかなり違いますね。

 「すべてがFになる」も「頼子のために」も探偵が事件を一歩引いた位置から観察する作品であることに変わりはありません。すなわち多くのミステリーがそうである(と思われる)ように

 作品世界


  探偵
  ↓(観察)

事件という物語

という構造を持っています。ここで「すべてがFになる」の探偵である犀川&萌絵は、事件をほぼ一方的に観察し、事件という物語からはあまり影響を受けません。無論、犀川&萌絵もキャラとして人生を背負っていますが、それは事件とは深く関係があるように見えないのです。

 一方「頼子のために」の「探偵法月綸太郎」(作者の法月綸太郎さんと区別するためにこう書きます)は事件を観察すると同時に、事件を自分自身の人生として背負い込んでいます。そのため、作品を「探偵の物語」として捉えたとき、「頼子のために」は「すべてがFになる」と大きく異なるのです。

 試しに作品世界から「事件」を取り除いてみましょう。すると「すべてがFになる」は

 作品世界

  犀川&萌絵

となります。これはもうメインの事件がないので「すべてがFになる」とは言えません。しかし「犀川&萌絵」の物語としてはこれでもまだ成り立つのです。

 ところが「頼子のために」から「事件」を取り除くと

 作品世界

  探偵法月綸太郎

これは「頼子のために」ではないだけでなく、もはや「探偵法月綸太郎」の物語ですらありません。(少なくとも「頼子のために」に関する限り)「探偵法月綸太郎」は事件と関わることによって「探偵法月綸太郎」になっているのです。

 上の図では分かりくいかも知れませんので、具体的な例をイメージしてみましょう。

 例えば私がコミケで「探偵法月綸太郎シリーズ」の同人誌を入手したとしましょう。もしその中で「探偵法月綸太郎」が事件に苦悩することなくのほほんと生きていたら、私は「こんなの探偵法月綸太郎じゃないやい!」と泣き叫んで打ちっぱなしのコンクリート壁に投げつけると思います。

 しかし同時に「犀川&萌絵シリーズ」の同人誌を入手して、その中で西之園萌絵が事件などそっちのけで犀川助教授にラブラブであったとしても、私は「ま、それもありか」とつぶやいて通路に座り込んで読み始めると思います。*1

 それくらい、両者は「事件に関わる探偵の物語」として違うのです。

*1:コミケで通路に座るのは迷惑です。やめましょう。

まんが・アニメ的リアリズムを集めるとゲーム的リアリズムになるのか

 ファウスト Vol.6 SIDE―A

に掲載されている東浩紀さんの評論「ゲーム的リアリズムの誕生」を読みました。東浩紀さんによると

  • 自然主義的リアリズム
    • ひとつの私とひとつの物語で現実を捉える

という2つのリアリズムがあり、そこに3つ目として

が提唱できるとしています。そして桜坂洋さんの「All You Need Is Kill」をゲーム的リアリズムによって解説しています。

 この「All You Need Is Kill」の解説自体も大変面白いのですが、私の関心は途中から別の可能性へと向かっていきました。それは

 まんが・アニメ的リアリズムを集めれば、それは「複数の私と複数の物語に開かれた素材を用いて、複数の私と複数の物語で現実を捉える」=「ゲーム的リアリズム」になってしまうではないか

 ということです。そう考えたのには、それに該当する作品として思い当たる節があるからです。それは桜庭一樹さんのいわゆる「地方都市シリーズ」です。

 桜坂さん曰く「ギャルゲー的シナリオやマルチエンドが読者に受け入れられるようになっています」

 桜庭さん曰く「マルチエンドを全て含めて1つの話を作りたい」「それがゲーム的にとらえられるかも知れません」

京フェスリアル・フィクションとは何か?」レポ
http://d.hatena.ne.jp/giolum/20051012#1129053212

 「地方都市シリーズ」は設定に共通点が多く、特に「推定少女」「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」「少女には向かない職業」の3作はほとんど同じと言っていいほどです。恐らくは共通の原型から分岐して生まれた作品なのでしょう。そして結末は作品ごとに異なる訳ですが、シリーズとしてのそれらは「マルチエンドを全て含めた1つの話」になることを目指しているらしい訳です。

 そしてその「マルチエンドを全て含めた1つの話」を(<虚構>ではなく、東浩紀さんの言う所の)ゲーム的に捉えると、それは「ゲーム的リアリズム」になってしまう。

 …なにかあまりにも上手く話が噛み合い過ぎて、重要な欠点を見落としているような気がします。ちょっと都合が良過ぎて恐いです。あとで落ちついて考え直したいと思います。