パラレルな「私」

 ファウスト Vol.6 SIDE―Aに掲載されている、東浩紀さんの評論「ゲーム的リアリズムの誕生」を読んで、谷川流さんの作品も東浩紀さんがいうところの「複数の私と複数の物語で現実を捉える」ゲーム的リアリズムを持っているんじゃないかなぁと思いました。

 谷川流さんの現在休止しているシリーズに「学校を出よう!」というものがありますが、この作品にはしばしば「複数の私と複数の物語」が登場します。

学校を出よう!〈2〉I‐My‐Me (電撃文庫)

学校を出よう!〈2〉I‐My‐Me (電撃文庫)

では、時間跳躍(タイムトラベル)によって同じ時間に主役の神田少年が3人存在することになります。このうち2人は同じ「物語」を共有していますが、3人目は別の「物語」を持っています。つまり「複数の私と複数の物語」があるのです。

学校を出よう!〈3〉The Laughing Bootleg (電撃文庫)

学校を出よう!〈3〉The Laughing Bootleg (電撃文庫)

では主役の茉衣子が茉衣子(水)と茉衣子(桃)に分裂してしまいます。ここで物語は2つの可能性を持つことになります。(その結末がどうなるかはネタバレになってしまうので書きません。)

学校を出よう!〈4〉Final Destination (電撃文庫)

では量子的な並行世界(パラレルワールド)を持ち込むことによって、それぞれ微妙に違う数百人のヒロイン仲嶋数花を登場させています。

学校を出よう!〈5〉NOT DEAD OR NOT ALIVE (電撃文庫)
学校を出よう! (6) VAMPIRE SYNDROME 電撃文庫 (0996)

では<アスタリスク>という現実より高次元のキャラに現実を繰り返しリセットさせることで、主役たちを同じ時間に複数回登場させています。

 というように「学校を出よう!」では、「私」は「ひとつの物語を生きる、確固たるひとつの私」ではなく「複数の物語を生きる、複数にばらけた私」として描かれることが多いのです。ただ単に視点や世界がばらけているのではなく、物語の主役である「私」がパラレルであるところがポイントですね。そこには桜坂洋さんの言われる

「『線』だった小説が、量子的に拡散しています」

京フェスリアル・フィクションとは何か?」レポ
http://d.hatena.ne.jp/giolum/20051012#1129053212

と相通じるものがあります。

「涼宮ハルヒの消失」のゲーム的リアリティー

 「学校を出よう!」と同じ谷川流さん著の「涼宮ハルヒ」シリーズも、時間跳躍や並行世界を用いたパラレルな構成になっています。ここでは「学校を出よう!」ほど明確な「複数の私」が描かれていません。しかし

ゲーム的リアリズムは、キャラクターの死を複数の物語のなかに拡散してしまうかわりに、その複数性に耐える解離的な生を描き、キャラクター・レベルとプレイヤー・レベルの二重構造を導入することで現実を作品化する。

ファウスト Vol.6 SIDE―A 301ページ、東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生

であることを考えると「涼宮ハルヒの消失」などはなかなかに「ゲーム的リアリズム」な作品に思えます。

涼宮ハルヒの消失 (角川スニーカー文庫)

涼宮ハルヒの消失 (角川スニーカー文庫)

 この作品は

  • 主人公キョンが並行世界のなかで「プレイヤー」として行動する。
  • 並行世界の他の登場人物は「キョン=プレイヤー」に命運を左右される「キャラクター」である。
  • キョン=プレイヤー」はひとつの物語を選択することで、「キャラクター(とりわけ長門有希)」が他の並行世界の中に持っている可能性を絶つ。「キョン=プレイヤー」は「キャラクター(しつこいようだが、とりわけ長門有希)」の「絶たれた可能性」もしくは「絶たれた可能性を生み出した可能性」を背負い込むことで、自分で選択した物語の中を解離的に生きていく。

と解釈することができると思います。これは「All You Need Is Kill」ほどクリアではないものの、やはり「ゲーム的リアリズム」を満たしているように見えます。

 ちょっと「ゲーム的リアリズム」を鵜呑みにし過ぎてる感じが自分でもしますが、このアングルは面白いですね。上遠野浩平さんや時雨沢恵一さんの作品は「複数の私」が明確でない点で「ゲーム的リアリズム」というよりまだ「まんが・アニメ的リアリズム」に近いですし、対して谷川流さん、桜坂洋さん、桜庭一樹さんの作品はぐっと「ゲーム的リアリズム」に近いです。

 というか桜庭一樹さんの「推定少女」「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」「少女には向かない職業」などは、個々の作品は「まんが・アニメ的リアリズム」だけれども、最後に全部集めると「ゲーム的リアリズム」になると言えそうですね。

 まぁ、解釈なんてなにが絶対的に正しいという訳でもないですし、こうしたアイデアを楽しみたいと思います。