ゲーム的リアリズムの中の萌えキャラとしての長門有希についてのメモ
特に目新しい内容はありませんが、自分の長門萌えを整理するためのメモです。
ゲーム的リアリズムは、キャラクターの死を複数の物語のなかに拡散してしまうかわりに、その複数性に耐える解離的な生を描き、キャラクター・レベルとプレイヤー・レベルの二重構造を導入することで現実を作品化する。
ファウスト Vol.6 SIDE―A 301ページ、東浩紀「ゲーム的リアリズムの誕生」
この東浩紀さんの「ゲーム的リアリズム」の考え方を読んで、私が真っ先に連想したのが桜庭一樹さんの「7人の女の子をめぐる7つの物語」でした。
いまでも谷川流さんの作風が一番良く出ているのは「涼宮ハルヒ」ではなく「学校を出よう!」だと考えています。そしてその後で「涼宮ハルヒの消失」に行き付きます。
- 消失したけれど消失していない「消失」の長門
- 「キョン=プレイヤー」はひとつの物語を選択することで、「キャラクター(とりわけ長門有希)」が他の並行世界の中に持っている可能性を絶つ。「キョン=プレイヤー」は「キャラクター(しつこいようだが、とりわけ長門有希)」の「絶たれた可能性」もしくは「絶たれた可能性を生み出した可能性」を背負い込むことで、自分で選択した物語の中を解離的に生きていく。
「涼宮ハルヒの消失」のゲーム的リアリティー
http://d.hatena.ne.jp/giolum/20051203#1133585792
「消失の長門」はキョンの選択によって消されてしまいます。しかしそのことによって以後のキョンは、長門の姿を見るたびにそこに「消失の長門」をだぶらせて見るようになるのです。
どちらかの設定に着地したのはどの瞬間なのか。キョンが観測した瞬間だとすると、長門は眼鏡をかけているのとかけていないのとの量子的重ね合わせ状態にあったのか。
(中略)
最近よく話題になるのが「ルート分岐解釈」あるいは「ゲーム的リアリズム解釈」と呼ばれるものである。その解釈とは「着地」はどこでも起こらない、というものである。「眼鏡をかけている長門」と「眼鏡をかけていない長門」の量子的重ね合わせ状態をキョンが観測した場合、そこでどちらかに着地するのでなくキョンも「眼鏡をかけている長門を見ているキョン」と「眼鏡をかけていない長門を見ているキョン」の量子的重ね合わせ状態となる、というものである。
長門有希は眼鏡をかけているか(そしてキョンは量子化される)
http://d.hatena.ne.jp/giolum/20060126#1138210689
上の文章は少々ふざけて書いたので分かりにくいですが「消失」以降、キョンの視点に立っている読者は「通常の長門」と「消失の長門」のどちらか一方ではなく、両方の長門を重ねて合わせて「長門有希」だと認識するようになるのです。分岐型ノベルゲームに例えれば、通常ルートと消失ルートがあって、その両方に同じキャラクターが登場するものの描かれる性格は異なるのに、結局両方で描かれた性格を重ね合わせてそのキャラクターを捉えてしまう感じです。
- 解離性クーデレなのかな
不覚にも最近まで「クーデレ*1」という用語を存じませんでした。クーデレという用語を説明されても、「綾波レイがクーデレの代表的キャラだ」と言われてもあまりピンときませんでした。が、「長門有希がクーデレだ」と言われた時、
おお、そうか(ぽん)
と大いに納得してしまいました。(良いのかそれで>自分)
私にとって長門は多分解離性クーデレなのです。通常の長門もクーデレと言えるでしょうがもっと巨視的に
という構造のクーデレに、私は萌えているのだと考えています。*2 *3
どこかで見たんだよなぁ、と思って必死で探して再発見してきました、えりゅえりゅDAYSさんの金の長門銀の長門。
これこれ、これですよ。これこそが長門有希への解離した萌えを見事に描いたものだと思います。