メモ-フィクションの中に物質はない。認識だけがある。

 「我思う、ゆえに我あり」とはデカルトの有名な命題ですが(参考:Wikipedia)、思うことで存在できるのならば幽霊がいたっていいのではないか? 集合的無意識(参考:Wikipedia)とやらがあるとするならば、何らかの姿で存在しているのではないか? もちろんこうした問題の立て方にはレトリックがありまして、物質的な存在と観念的な存在とをごっちゃにしているわけです。

 しかし、これが物語内でのお話となりますと、すべてが観念的な存在となりますから、思うことで幽霊を登場させることもできますし、幽霊がものを思うことだってできます。


三軒茶屋 別館-『学校を出よう! 1』(谷川流電撃文庫
http://d.hatena.ne.jp/sangencyaya/20071001/1191238722

多次元時間(虚時間)もそうですが、量子力学シュレディンガー波動関数を見ると「モノの実在」が揺らいでいるようです。そして谷川流の作品を読んでいると、ユング心理学でいうところの普遍的無意識に潜んでいる「モノ」が認識によって意識上の「実在」を得るところと、この多次元時間説や量子力学における「実在」の揺らぎとを、だぶらせているようなイメージを受けます。まぁ科学的には根拠のない飛躍なんですが、フィクションとしては面白いです。


竜人館-「学校を出よう!」の既刊情報&感想
http://www.bekkoame.ne.jp/i/ureshino/giolum/impress/sistersquare.html

 ちなみに「集合的無意識」と「普遍的無意識」は同じものです。以下とりとめもなくメモ。

    • 小説とは認識のシステムである。物質的には紙に文字列が印刷されているだけのものだが、読者はそこから物語世界を認識し、再生する。
    • その物語世界には物質は存在しない。物語世界はあくまで読者の頭の中で認識されているものでしかない。
    • 小説以外の、メディアを使ったフィクションでも同じことが言える。TVドラマや映画も、メディア自体は物質的に存在するが、視聴者がその向こうに物語世界があると思い込んでいるだけで、実は物語世界は物質的には存在しない。実写作品も、実在する背景、大道具、小道具を使って撮影し、メディアに記録した作り物である。
    • メディア技術が発達すれば、フィクションの中の物語世界でそこにある「はず」のものに触ったり、匂いを嗅いだり、味わったりすることがやがて可能になると思われる。それでもやはり、その物語世界は読者や視聴者が頭の中で認識している現象にすぎない。
    • フィクションの中の物語世界では、すべてが読者・視聴者の認識によって存在している。物語世界内で物質的に存在するように思い込んでいるものも、物語世界内でただ単に認識しているものも、どちらも認識によって存在している。
    • 物語世界の中では、物質的に存在している(ように思い込んでいる)ものと、ただ認識しているものとが等価に存在できる。
    • 谷川流作品はこの「物語世界では物質的存在と認識が等価になりえる」ことをしばしば利用しているように思える。例えば
      • 「電撃!!イージス5」の雪崎凌央は、空間に文字を書くと、作中でその文字の内容を実現できる能力を持っている。
      • 学校を出よう!」の新屋敷祈は、口にした言葉が、作中で実現してしまう能力を持っている。


「電撃!!イージス5」では掛川あろえというキャラクターも、スケッチブックに描いたものを現実化できるという能力をもって登場します。最後にあろえがその能力を使うシーンを紹介します。何気ない文章ですが、そこに谷川流さんのフィクションに対するスタンスが現れているように思えます。

あろえのスケッチブックが発光した。固形の青白い光がゆるやかに姿を変え、輝きが薄れた時、あろえが両手で持っているのはチェーンソーのごとき物体である。壁に穴を空ける道具とは何かと考えて、それくらいしか思いつかなかった僕が描くように指示したわけだが、当然、それはあらかじめ知っていなければチェーンソーとは思えないような形状をしている。これは、あろえの想像の中にしかないチェーンソーだ。


谷川流「電撃!!イージス5」1巻169ページ

電撃!!イージス5 (電撃文庫)

電撃!!イージス5 (電撃文庫)