「リリカル・ミステリー 春待ちの姫君たち」についてネタバレでダラダラと書きましょう

 友桐夏さんの「リリカル・ミステリー 春待ちの姫君たち

について「物語消費」だの「ゲーム的リアリズム」だのダラダラ書きます。ネタバレありです。


(なにか上のエントリに来ると、せっかく「続きを見る」で隠しても見えちゃうので改行を入れます〜。)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 (こんなものでいいかな?(^^;)

  • 作られ消費される物語、あるいは失われるべき移行対象

 「春待ちの姫君たち」で私がとても面白いと思ったのは、劇中劇「春待ちの姫君たち」が主人公・赤音によっていわゆる「物語消費」されていることです。単なるメタフィクションではなくて、舞によって意図的に「赤音によって糧とされるため」に作られた物語なのですよ。あるいは赤音にとっての「あらかじめ失われることが予定されている<移行対象>」と言っても良いでしょう。

 こうした「劇中で消費される劇中の物語」は、あざの耕平さんの「Dクラッカーズ」に登場する「王国」や、甲田学人さんの「Missing」に登場する民話・都市伝説にも見られます(と私は思っています)が、高い完成度でコンパクトにまとまっているという点では「春待ちの姫君たち」の方が上ではないかと思います。人によっては「これは物語の捏造ではないか」と思われるかも知れませんけれどもね。
 ともかくも友桐夏さんは、物語が人を変えることがあると確信されているようです。

  • 4人の「赤音」

 この作品は2つの方向でメタな構造になっています。つまり

    • 赤音⇔姫君という方向
    • 赤音⇔彩という方向

です。この構造に私はしてやられました。

 順を追って、「赤音」たちの登場を見ていきましょう。まず

  1.赤音

がいます。そして序盤で

  2.姫君

が登場します。この「赤音⇔姫君」がメタになっているのは、誰でも分かるでしょう。そして終盤に入ると実は

  3.彩

も「赤音⇔彩」と、メタになっていることが分かります。勘の良い方は前半でこのことに気付かれるかもしれません。(でも私は気付きませんでした。笑)

 ここまでの3回転でも十分素晴らしいのですが、しかし、ここでさらにとどめの4回転目が入るのです。

  4.召使

 そうです。そうなのですよ!なんと「姫君⇔召使」もしくは「彩⇔召使」もメタになっているのですよ。これにはやられました。確かに

    • 赤音⇔姫君という方向
    • 赤音⇔彩という方向

にメタな関係があるならば、

    • 赤音⇔姫君という方向 = 彩⇔召使という方向
    • 赤音⇔彩という方向 = 姫君⇔召使という方向

にもメタな関係が成り立つ訳です。3回転ジャンプかと思っていたら4回転ジャンプだったのです。これには唸らされました。

 そしてこの4回転ジャンプは、ラストで見事に1人の「赤音」へと着地します。「現実」と劇中劇「春待ちの姫君たち」という2つの物語に登場する「赤音」「姫君」「彩」「召使」の4人は、現実という1つの物語を生きる1人の赤音へと収束するのです。

 うん?これは東浩紀さんが「All You Need Is Kill」を引き合いに出して言われている「ゲーム的リアリズム」の着地点と似ているような気がします。

ゲーム的リアリズムは、キャラクターの死を複数の物語のなかに拡散させてしまうかわりに、その複数性に耐える解離した生を描き、キャラクター・レベルとプレイヤー・レベルの二層構造を導入することで現実を作品化する。


東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生」(「ファウスト Vol.6 SIDE―A」 301ページ)

 とはいえ「All You Need Is Kill」と違って「春待ちの姫君たち」の物語は反復可能ではないですし、キャラクター・レベルとプレイヤー・レベルでの二層構造もない、と思います。代わりに上述の2つの方向性を持つメタ構造がありますが、これを「キャラクター・レベルとプレイヤー・レベルの二層構造」に見立てられるかどうかはちょっと微妙です。

 と、そんな訳でダラダラと書いてみました〜。