「学校を出よう!2」についての仮説その4 そして景色は変わって行く

「学校を出よう!2」についての仮説その3の続きです。

 前回説明しました「今津地上駅乗り継ぎ説」に基づく「学校を出よう!2」の舞台モデル推定地の写真を追加の説明を交えながら紹介したいと思います。

 サナエとは改札を入ってすぐの所にある大時計の横で落ち合うことにする。


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 西宮北口駅改札内にあるこの時計台(カリヨン)は、橋上駅舎の2階コンコース中央に建っています。橋上駅舎は神戸線今津線の平面交差(ダイヤモンドクロス)が1984年に廃止された後に建てられたので、時計台が建てられたのもそれ以降でしょう。地域情報誌「宮っ子」では1987年に初めてこの時計台が登場するので1984〜1987年頃に建てられたと推定されます。

 ということは、今津地上駅が1993年までしかなかったことと合わせると、鉄道の描写に限るというご都合的な解釈をすれば、「学校を出よう!2」は1980年代後半から1990年代始めを舞台にしていると考えることができます。これは作者の谷川流さんが中学生〜大学生だった頃に相当します。

 神田Aが促して先陣を切る。どちらの側のホームに神田Nがいるのか確信があった。階段を駆け下りると、やはり奴はそこにいる。


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 橋上駅舎なので階段でホームに駆け下りるのです。このシーンに登場するホームは1984年の平面交差廃止によって作られた今津南線のホームと考えられます。階段は一つだけで、いつ出来たのかは特定できないのですが、恐らく駅舎が完成した1987年にはできていて、それ以後は位置が変わっていないと思われます。ということは

まさにこの階段を神田A・B、星名サナエは駆け下りたのでしょう。北西口から駅に入ったと考えられるので、ちょうど橋上駅舎を北西→南東に横切って移動したのです。

 写真の左には神戸線のホームが写っています。実はパーティションで区切られているだけで今津南線ホームと神戸線ホームは繋がっているのです。これは平面交差廃止直後はまだ階段がなかったため、神戸線ホームから今津南線ホームに出入りするようになっていた名残なのではないかと思うのですがどうなのでしょう。

ゆるやかに停車したチョコレート色の車輌のドアが開き、乗降客達がすれ違う。神田Nの背中を見つつ、三車輌後の箱に三人は乗り込んだ。


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「三車輌後」ということは4輌以上の編成でないといけないのですが、残念ながら現在運行しているのは3輌編成です。ただしホームは4輌分あるので当時は4輌編成だったのかも知れません。車輌は阪急6000系ワンマン仕様というものらしく、これまた残念ながら作中の推定モデル時期に走っていたものとは違います。ちなみに6000系ワンマン仕様は甲陽線でも使われていますね。甲陽線にしてもこの今津南線にしても、わずか3駅間を3輌編成が行ったり来たりするという、都市部の割にはなんとものんびりした路線です。

 なお、西宮北口駅の今津南線ホームは2010年までの高架化が予定されており、まもなく着工するようです。ホームは東側に移動し、階段は不要となるので廃止されるでしょう。上の2枚の写真の光景が見たい方はお早めに。

 音透湖の手がかりを求めて神田Aが降りる駅のモデルと考えられる駅。芦屋市役所前から撮影しました。周囲の建物はかなり建て変わっているようですが、駅舎は作中の推定モデル時期である1980年代後半〜1990年代始めの姿をほぼ残しているようです。

 神田Nが幽霊マンションに行く際に降りる駅のモデルと考えられる駅。神田Nは北に行ったことになっているので北側から撮影しました。駅舎は改築が繰り返され、現在も工事中。ただ正面入り口は当時の面影を残しているのではないかと思います。多分……。

 今津駅は高架化によって当時とは全く別の駅舎になっています。阪急神戸三宮駅は震災で駅舎を建て替えているらしいのですが、作中に駅舎について描写がないですし、昔の駅舎も存じないのでパスします。

という訳で長々と書いて来た「学校を出よう!2」について新たに考えた舞台モデル推定地の説明を終わります。お粗末さまでした。