キャラが立つ時、立たない時

 桜坂洋さん著「よくわかる現代魔法」についての軽度のネタバレを含みます。

 上記2つの記事で紹介されているスレの冒頭を読んで、私は少々ショックを受けました。桜坂洋さん著「よくわかる現代魔法」1巻のあるシーンが引用され、描写がくどいと酷評されています。

 改めて該当するシーンを引用しておきます。

よくわかる現代魔法 1 new edition (スーパーダッシュ文庫)

よくわかる現代魔法 1 new edition (スーパーダッシュ文庫)

「どうする? この再会はただの偶然だけど、あなたの選択によっては偶然を運命にできるわよ」
 女は、静かな声で言った。
 銀色のメガネの奥にある漆黒の瞳。深い瞳。アミュレットと同じ色の瞳。はちみつのようなねっとりとした陽光を背に受け、髪の輪郭がハレーションを起こしていた。周囲をとりまく人の姿が灰色の影に見える。灰色の影の中に、墨一色で描かれた女性が立っている。瞬きもしな
(姉原美鎖の正面からの挿絵)
いふたつの黒円がこよみを見つめていた。
 おもいきり、息を吸いこむ。
「……」
「……」
「……」
「やります!」
「そう」
 にっこりほほえんで、女は手をさしだした。ものすごく白い手だった。
「姉原美鎖よ。よろしく」
「も、森下こよみです」


桜坂洋よくわかる現代魔法 1 new edition」P52〜54(P53は挿絵)

 確かにこのシーンの描写はくどいです。私ですら、このシーンだけを抜き出して何の説明もなしに読まされたら違和感を覚えると思います。しかしこのしつこい描写は必然的に使われているものでありまして、ここより前の展開、そしてその後のキャラクターの印象と密接に関わっているものであることは説明しておく必要があるでしょう。

 ネタバレを極力おさえて説明しますと、これは主人公の少女、森下こよみが姉原美鎖という魔法を使う女性と再会するシーンです。新版「new edition」だと2章の終わり、旧版だと3章の終わりに相当します。実はこの2人は1章でも会っているのですが、その時は気の弱いこよみが美鎖の前から逃げ出すように去っています。そして2章の上記のシーンでこよみは改めて「魔法」を習得しようと決心し、美鎖と向かい合うのです。

銀色のメガネの奥にある漆黒の瞳。深い瞳。アミュレットと同じ色の瞳。はちみつのようなねっとりとした陽光を背に受け、髪の輪郭がハレーションを起こしていた。周囲をとりまく人の姿が灰色の影に見える。灰色の影の中に、墨一色で描かれた女性が立っている。

 こよみの視点から、奇妙な例え方で美鎖が描かれています。この時まさに読者の前に「姉原美鎖」というキャラクターが「立つ」のです。「現代魔法」のファンの方なら納得して頂けると思うのですが、ここでしつこいまで繰り返される「黒」「墨一色」の形容こそが美鎖のキャラクター色なのであります。この「キャラクターが立つ」感触は是非、実際に「現代魔法」を読んで感じて頂きたい!

 また、桜坂洋さんと担当編集の方がこの効果を狙ってやっているのは、この箇所で美鎖が初めて挿絵に登場することから明らかであります。そう、美鎖は1章では文中で登場するのみで、2章のこのシーンで初めて読者の前にイメージとして現れるのだ! それもあたかも森下こよみから見るような正面からのショットで。この挿絵は文章とセットで、こよみ=読者と同化した視点を通して「美鎖」というキャラクターの印象を決定的に焼き付ける役割をしているのです。

 と、少々電波が入った感じで熱く語ってしまいましたが、もちろん全く別の捉え方もある訳でありまして、冒頭の記事で紹介されているスレで酷評している方は、恐らく姉原美鎖というキャラクターに魅力を感じなかったのでしょう。つまりその方の中では、美鎖というキャラクターは「立たなかった」のでありましょう。その場合、上記のシーンをもはや大して意味のない無駄な描写で終始すると感じても不思議ではありません。

 私個人としては、そして恐らく典型的なラノベ読みにとっても、ライトノベルを読んでいる際に「キャラクターが立つ」ことはとても重要です。キャラクターが立つ瞬間、そのキーポイントを捉えることが一種の快感です。しかしそういった感覚は、普遍的なものではないようです。少なくとも、上記のスレで姉原美鎖のキャラクターが立つべきシーンを酷評するような方もいらっしゃる訳です。

 ライトノベル読みというのは、ある意味作者・編集者との共犯関係を持っている、作り手側の意図を半ば無意識的に察しながら読んでしまう存在なのでありましょう。それはどんなメディア、どんなジャンルのファンでも多かれ少なかれ言える事ではあるのでしょうが。