猫耳の繁栄と獣人の苦難

そもそもネコミミなどはアクセサリーに過ぎず、獣化の構成要素としては認めにくいものがある。

 獣人キャラの中でも萌え度の高いものとして、獣化変身を行うものがあげられる。映画「キャットピープル」など、獣形態と人間での変身を伴うものはある種の萌え要素を秘めている。

(中略)

ただし、獣人萌えはかなりマイノリティなのは確かだ。


狂詩曲の果てに-獣人キャラ萌え
http://d.hatena.ne.jp/minap/20051212/m2

 あぁ、ようやく東浩紀さんが「動物化するポストモダン」で力説している萌えの「データベース消費」が分かったような気がします。

 千匹皮やキャットピープルは重いです。なにせ「千匹皮」や「キャットピープル」は設定要素を表わす用語でありながら主人公自身を示すものであり、さらには作品そのものでもあります。物語を背負っている訳です。

 それに比べてネコ耳はアクセサリーです。軽いです。物語を背負わせることは可能ですが、なくてもOKです。しかしその軽さ・薄さゆえにネコ耳は他の萌え要素とぶつかりにくく、組み合わせやすいのです。例えば「猫耳メガネ妹戦闘メイドロボ」*1なんてこともできる訳です。獣人ではこれはできないでしょう。

 この時、「ネコ耳」は他の萌え要素と並列の関係にある訳です。互いに優位でも従属的でもなくただただ並列にアクセサリー・パーツが並んでいるのです。たくさんの萌え要素がデータベース的に並んでいて、そこから「ネコ耳」やら「妹」やら「メイド」やらを選択して組み合わせてキャラを作って消費する。こういう捉え方が東浩紀さんの言う萌えの「データベース消費」なんでしょう、きっと。

 だから「獣人萌え」というのもあっても良い、というか「十二国記」の麒麟さん萌えとかあるようですし、「月と貴方に花束を」とか「我が家のお稲荷さま。」「レディ・ガンナー」「ラグナロク」のように獣人が出てくる作品は少なくないので「獣人萌え」という需要(属性)はあるのでしょう。けれども、その背負っている物語性と他要素との相性の悪さが災いしてポストモダンなデータベース消費には合っていないのです。そのために獣人は苦戦しているのではないでしょうか。

 逆にネコ耳は意味はペラペラだけれどもガンガン他の要素と組み合わせられるために薄く広く繁栄することができたのです。ネコ耳はデータベース消費時代の申し子なんです。

 をを、なにか凄く綺麗に説明できました。でもどこか落とし穴があるかも知れません。疑って掛かりましょう。(笑)

 …というかこの手の議論は恐らくやっているところではやり尽くされているのでしょうね。私はそれを遅まきながら追体験しているだけです。

*1:実際にやると外すと思います

全然まとまってないメモ書き(汗)

REVの日記-物語の輪郭
http://d.hatena.ne.jp/REV/20051214#p2
を読んで思ったことをつらつらと。

  • 「実存的」の解釈

 前島賢さんの言われている「実存的」というのは、異世界などの架空の舞台を借りずに現実の人間の希望や葛藤を書く、ということではないかと思います。

 例えば、私の好きな深層心理(精神分析)的な解釈では、異世界ファンタジーというのは心象世界なんですね。ただのフィクションではなく、作者や読者の「こうだったらいいな」「こういう世界に行ってみたいな」という無意識・深層心理が反映されているものと見なせるのです。もちろん意識的にお約束で作られている部分もあります。

 80年代〜90年代には、ファンタジー作品中の異世界が多くの読者にとって無意識の内の共通認識・共通仮想体験の場として機能していました。しかしやがてお約束的な定形部分、意識的な部分が増え、極論するとファンタジーのためのファンタジーでしかなくなり、無意識の反映が形骸化し、共通仮想体験が機能不全を起こしてしまうのです。

 そんなときに世界の危機を察知したのか「ブギーポップ」が登場してきて「異世界なんていらないんだよ。今、ここを舞台に人間の心理をしっかり書けばそれで良いんだよ。竹田君」と言ったわけです。少なくともシリーズの序盤では。これが「実存的」という意味ではないかと思うのですがどうでしょう。

  • 物語の描きかた

 物語の面で「ブギーポップ」が行なった役割は、「複数の視点と複数の物語の時間的並列」をライトノベルで流行させたことだと思います。

 東浩紀さんの「ゲーム的リアリズム」の出発点の1つがここにあるのかも知れません。(先日は「ブギーポップ」は「まんが・アニメ的リアリズム」ではないかと書きましたが、その後、考えが揺れてます。(^^;)ただ、出発点としては良かったけれども着地点としてはあいまいです。東浩紀さんは「ファウスト Vol.6 SIDE―A」に掲載された「ゲーム的リアリズムの誕生」において桜坂洋さんの「All You Need Is Kill」が「ゲーム的リアリズム」の1つの着地点だとしていますね。

 「涼宮ハルヒ」は物語を積極的にメタ視しようとしている作品だと思っています。元々この作品は単発だったのに、編集側の意向でシリーズ化されました。その結果、最初のうちは苦し紛れに話を延ばしている感じがしていました。が、最近はその経緯を逆手にとって、物語を進めようとする力と停滞させようとする力の押し合いをテーマにしているように思えます。二次元的な時間設定のなかで異常な日常を繰り返そうとするハルヒと、未来のための日常を維持しようとするキョン

 「フルメタ」と桜庭一樹さんの「赤×ピンク」以降の個々の作品は「物語消費だって捨てたもんじゃないさ!要は完成度さ!とことんやってみよう!」としているように見えます。ただ桜庭一樹さんの作品は集合させて見るとゲーム的リアリズムを持っているかも。

 「シャナ」はちょこっとしか読んでいないし、西尾維新さんは読んでいないので分かりません。いや買ってはあるんですけれども。積み上がっていくばかりです。いつ読めるかなぁ…。(汗)