全然まとまってないメモ書き(汗)

REVの日記-物語の輪郭
http://d.hatena.ne.jp/REV/20051214#p2
を読んで思ったことをつらつらと。

  • 「実存的」の解釈

 前島賢さんの言われている「実存的」というのは、異世界などの架空の舞台を借りずに現実の人間の希望や葛藤を書く、ということではないかと思います。

 例えば、私の好きな深層心理(精神分析)的な解釈では、異世界ファンタジーというのは心象世界なんですね。ただのフィクションではなく、作者や読者の「こうだったらいいな」「こういう世界に行ってみたいな」という無意識・深層心理が反映されているものと見なせるのです。もちろん意識的にお約束で作られている部分もあります。

 80年代〜90年代には、ファンタジー作品中の異世界が多くの読者にとって無意識の内の共通認識・共通仮想体験の場として機能していました。しかしやがてお約束的な定形部分、意識的な部分が増え、極論するとファンタジーのためのファンタジーでしかなくなり、無意識の反映が形骸化し、共通仮想体験が機能不全を起こしてしまうのです。

 そんなときに世界の危機を察知したのか「ブギーポップ」が登場してきて「異世界なんていらないんだよ。今、ここを舞台に人間の心理をしっかり書けばそれで良いんだよ。竹田君」と言ったわけです。少なくともシリーズの序盤では。これが「実存的」という意味ではないかと思うのですがどうでしょう。

  • 物語の描きかた

 物語の面で「ブギーポップ」が行なった役割は、「複数の視点と複数の物語の時間的並列」をライトノベルで流行させたことだと思います。

 東浩紀さんの「ゲーム的リアリズム」の出発点の1つがここにあるのかも知れません。(先日は「ブギーポップ」は「まんが・アニメ的リアリズム」ではないかと書きましたが、その後、考えが揺れてます。(^^;)ただ、出発点としては良かったけれども着地点としてはあいまいです。東浩紀さんは「ファウスト Vol.6 SIDE―A」に掲載された「ゲーム的リアリズムの誕生」において桜坂洋さんの「All You Need Is Kill」が「ゲーム的リアリズム」の1つの着地点だとしていますね。

 「涼宮ハルヒ」は物語を積極的にメタ視しようとしている作品だと思っています。元々この作品は単発だったのに、編集側の意向でシリーズ化されました。その結果、最初のうちは苦し紛れに話を延ばしている感じがしていました。が、最近はその経緯を逆手にとって、物語を進めようとする力と停滞させようとする力の押し合いをテーマにしているように思えます。二次元的な時間設定のなかで異常な日常を繰り返そうとするハルヒと、未来のための日常を維持しようとするキョン

 「フルメタ」と桜庭一樹さんの「赤×ピンク」以降の個々の作品は「物語消費だって捨てたもんじゃないさ!要は完成度さ!とことんやってみよう!」としているように見えます。ただ桜庭一樹さんの作品は集合させて見るとゲーム的リアリズムを持っているかも。

 「シャナ」はちょこっとしか読んでいないし、西尾維新さんは読んでいないので分かりません。いや買ってはあるんですけれども。積み上がっていくばかりです。いつ読めるかなぁ…。(汗)