シリーズとしての行き詰まりを和らげる普遍性
ライトノベルと呼ばれる作品群はシリーズものが多いですが、そのシリーズものの中で行き詰まってしまうものが少なくありません。よくあるように思えるのが、シリーズとして重要な局面に至ったところで話の進行が足踏みしてしまうパターンですね。新刊は刊行されるけれども話が進まなかったり、刊行ペースが落ちたり、ファンとしてはやきもきするところです。*1
ところが、刊行ペースが落ちているものの、あまり行き詰まっているように思えないシリーズというものもあります。例えば時雨沢恵一さんの「キノの旅」、例えば上遠野浩平さんの「ブギーポップ」。この2つのシリーズは開始当初より刊行ペースが落ちており、さすがに当初の新鮮さも薄れています。しかし、新刊が出れば相変わらず売れていますし、(書いている方は苦労されているでしょうが)それほど行き詰まっているように感じられません。
何故か?この2作品に共通する理由をちょっと考えてみました。
- シリーズを通しての重要キャラ(キノ、ブギーポップ)はいるが、彼らは主体的ではなく、どちらかというと傍観者
- 主役は他の誰かでも良く、他の誰かが主役でも番外編にはならない
- シリーズを通しての重要キャラは、単にキャラというだけでなく概念的な存在
- 作品の発表順が作中の時系列順でなくとも良い
- シリーズの始まりはあるが、終わりは明確になくとも良い
言い換えると、作品全体及び重要キャラが普遍的で、あまりキャラの役割・空間・時間に縛られていないとでも言いましょうか。「キノ」にしても「ブギーポップ」にしても、誰が主役でもおかしくないし、どこが舞台になっても不思議ではないし*2、新作が時系列上一番先になくても構わないのです。
また「普遍的」ということは「飽きられにくい」「流行り廃りが少ない」ということにもなりそうです。
シリーズ作品を作る場合、終わりまできっちり書くというのが1つの理想だと思いますが、シリーズ自体を普遍的にして「終わらせない」もしくは「終わらせなくてもおかしくない」とするのも良い手ではないかな、と思います。