スレイヤーズとオーフェンとフルメタを日常と非日常から見たメモ書き、または学園について
- フルメタル・パニック!
- 長編(ミスリル編):実世界の闘いが舞台。不可逆な物語。
- 短編(陣高編):実世界の学園が舞台。繰り返されるドタバタ劇。長編に合流。
スレイヤーズは長編では非日常的、短編では日常的な面を持っています。が、あくまでファンタジーによくある異世界での旅をベースにしています。
オーフェンになると、短編の舞台が学園や都市という日常的なものになり、長編の非日常性との書き分けがより明確になってきます。
フルメタでは作品全体の舞台が、スレイヤーズ・オーフェンの非日常的な異世界から、日常的な実世界になり、その中で長編では非日常的、短編では日常的な面を描いています。
またスレイヤーズとオーフェンの短編は長編の前日談として書かれているものの、長く続くうちに辻褄が合わなくなってきて関連があいまいになっています。ここを、フルメタでは短編をかなりはっきりと長編に合流させて、非日常(学園)と日常(闘い)を対比させています。
「スレイヤーズ」→「オーフェン」→「フルメタ」と新しい作品ほど、
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- 日常性を重視する
- 「日常と非日常のギャップ」を重視する
傾向があるのではないかと思います。
- 「学園」について
今のライトノベルは学園ものが多いですが、ひとくちに「学園もの」といっても
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- 日常の学園生活だけを描く作品
- 日常の学園生活と非日常的な大事件を描く作品
(3.非日常だけを描く作品もあるが、これは学園ものの外見を借りたバトルものだと思う。)
があると思います。フルメタは典型的な「2」です。「1」はフルメタの短編だけを独立させたような作品。これはこれでありだと思います。で、「2」の場合(というか1〜3すべての場合?)、学園は日常を印象的に描くための舞台装置になっています。
そこで思うのですが、よくライトノベルは「異世界ファンタジーから学園ものに舞台がシフトした」と言われますが、「非日常的な異世界」と「日常的な学園」を単純に1か0かで見るのは難しいのではないでしょうか。
元々作品は日常と非日常を併せ持つことが可能であり、その中で日常の方がクローズアップされるようになった(それは逆に日常と対比される非日常を重視することにもなり得る)から「学園」が舞台装置としてよく使われるようになったのではないかと考えます。考え方が逆流してるかも知れませんが。
- 榊一郎さんの「学園」に対するメタ視
「学園」とは何なのかを考える時、榊一郎さんの作品は一歩引いたクールな視点を持っていると思います。例えば「まじしゃんず・あかでみぃ」では主人公が実世界の学校と異世界の学校の両方に通っています。さらに「君の居た昨日、僕の見る明日」になると主人公が通う学園は異世界でしかなく、しかもそれはもはや学園ではなく「学園ごっこ」です。
君の居た昨日 僕の見る明日(1)―STARTING BELL― (富士見ファンタジア文庫)
- 作者: 榊一郎,狐印
- 出版社/メーカー: 富士見書房
- 発売日: 2004/08/20
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私は「君の居た昨日、僕の見る明日」を読むたびに、ライトノベルで繁栄を築いている「学園」というのは実は「学園ごっこ」に過ぎないんじゃないかと、ちょっと恐くなることがあります。
- 「学園」は安住の楽園なのかなぁ
今のところ、学園は読者のポジティブな経験もネガティブな記憶も引きうけてくれる強固な日常として機能しているようです。しかし「ARTIFACT ―人工事実― | 第2回文学フリマのレポート」を読んだりすると、5年後10年後に「学園ものが好きだった10代の僕を、どうやって肯定すればいいんですか!」と絶叫する人がいるかも知れないと思ってしまいます。流行作品の受けとめられ方なんて時間が経てばあっさりひっくり返ったりするものなのです。「非日常的な異世界」と「日常的な学園」を単純に比較するのは難しいとしても。
…クリスマス・イブだというのに、私は何故こんな訳の分からないことを書いているのでしょう。あ、クリスマス・イブだから訳の分からないことを書いているのか。納得。(←納得するな。>自分)