長門有希は眼鏡をかけているか(そしてキョンは量子化される)

 長門有希が文芸部室の中にいる。中には他に、眼鏡属性の詰まったビンとそれを割る装置、それから装置を起動させるスイッチとなる電波検知器、それに半減期が1時間の読者の理性1個が置かれている。

 半減期が1時間であるから、1時間の間にこの読者の理性が崩壊して電波を放出し、装置が作動して長門が眼鏡をかける確率は50%。丁度1時間後にキョンが部室のドアを開けたとき、長門が眼鏡をかけているかいないか判るのだが、では量子的重ね合わせからどちらかの設定に着地したのはどの瞬間なのか。キョンが観測した瞬間だとすると、長門は眼鏡をかけているのとかけていないのとの量子的重ね合わせ状態にあったのか。

 この「観測した瞬間」の定義が問題であり、この問題を端的に浮き彫りにするために使われるのがこの長門の例えであると言える。着地はいつ起こるのか。装置が電波を感知した瞬間か。長門が装置を見た瞬間か。キョン長門を見た瞬間か。どれであっても、結局我々キョンが見た瞬間には着地しているので、実験結果を説明する上では区別する必要はない。

(中略)

 最近よく話題になるのが「ルート分岐解釈」あるいは「ゲーム的リアリズム解釈」と呼ばれるものである。その解釈とは「着地」はどこでも起こらない、というものである。「眼鏡をかけている長門」と「眼鏡をかけていない長門」の量子的重ね合わせ状態をキョンが観測した場合、そこでどちらかに着地するのでなくキョンも「眼鏡をかけている長門を見ているキョン」と「眼鏡をかけていない長門を見ているキョン」の量子的重ね合わせ状態となる、というものである。それぞれのエピソードのキョンからすれば「眼鏡をかけている長門」と「眼鏡をかけていない長門」しか見えないのだから、着地しているのと同じことであり実験結果とも矛盾しない。

 済みません、パロディです。元ネタは次の2つです。

はてなキーワード-観測問題
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%b4%d1%c2%ac%cc%e4%c2%ea

はてなキーワード-シュレディンガーの猫
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%a5%b7%a5%e5%a5%ec%a5%c7%a5%a3%a5%f3%a5%ac%a1%bc%a4%ce%c7%ad

 とは言うものの、上のパロディは結構マジで書いている部分もあります。簡単に言うと「ゲーム的リアリズム量子論は何かしら関係がありそうだ」ということです。

ゲームプレイの本質は、こちらがこうすればあちらはそうする、こちらがそうしなければあちらはああする、といった他者依存的、状況依存的な展開の複数性にある。これは、本論の関心に引きつけて言いかえれば、ゲームプレイの本質が、こちらがこうすればある物語が展開し、こちらがそうしなければまた別の物語が展開する、という物語の複数性にあることを意味する。


東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生

と論じる東浩紀さんですが、この考え方は量子論多世界解釈になんだか似ています。また、東浩紀さんはゲーム的リアリズムの例として「All You Need Is Kill」を挙げていますが、「All You Need Is Kill」の作者である桜坂洋さんは

「ギャルゲー的シナリオやマルチエンドが読者に受け入れられるようになっています」
「『線』だった小説が、量子的に拡散しています」

京フェスリアル・フィクションとは何か?」レポ
http://d.hatena.ne.jp/giolum/20051012#1129053212

と、物語の複数性を量子論に例えています。

 そして最初にパロディに使った谷川流さんの「涼宮ハルヒ」。この作品にもゲーム的リアリズムがあると私は考えていますが、そのリアリズムはゲームの影響から来ているというより量子論多世界解釈をヒントにした世界設定に支えられているように見えます。

 まぁ、単純に「量子論ゲーム的リアリズム」などとは繋がらなくて、色々な要素が混ざった結果、そこにゲーム的リアリズム解釈が可能になっている、ということなのでしょうけれどもね。