可能性の開かれた物語

後天性無気力症候群さんでゲーム的リアリズムという東浩紀の論をとりあげていたが、この本で大塚英志氏が言ってる事も同じ様なものに自分は見える。ゲーム的リアリズムとは東浩紀氏が「ひぐらしのなく頃に」とかを説明するために作った言葉なんだろうが ざっくり言うと”分岐のもう片方のエンドを想像できる事”なんだと思う。


星ぼしの荒野から-「更新期の文学大塚英志の回
http://d.hatena.ne.jp/ni-to/20051227/1135702284

 「更新期の文学」を買っていないので*1はっきりとは分かりませんが大塚英志さんの言っているのはゲーム的リアリズム」そのものというよりも、そのヒントになった(と私は思っている)クロード・ブレモンの唱える可能性の開かれたストーリー構造ではないかと思います。

クロード・ブレモンの説話論は、一つの行為はつねに達成されなかった可能性を持つというかたちで、フローチャートとして説話のなかに分岐点を設けていく。ある敵と出会った時に、その敵を殺さなかったら物語はどう進展したか。殺したらどう進展したか。その結果いずれの場合もべつの可能性を含んでいくわけです。


大塚英志物語消滅論」195ページ

 このクロード・ブレモンの説話論は「キャラクター小説の作り方」でも取り上げられていて、その直後にこう書かれています。

まさに「物語が一直線でなく」あちらこちらに場面ごとに分岐する可能性を常に秘めていて、かつ「キャラクターが勝手に動き出す」という要素がそこに加わることにこそ「スニーカー文庫のような小説」の本質があるとぼくは考えます。


大塚英志「キャラクター小説の作り方」166ページ「物語はたった一つの終わりに向かっていくわけではないことについて」

 このブレモンの考え方については、こちらのサイトが詳しいです。

 簡単に言ってしまうと、ブレモン以前にプロップという人が「物語とは機能単位の組合せでできていて、しかもその組合せのパターンは限られている」と唱えたのですね。それに対してブレモンは「それは物語を閉じてしまう考え方だ。物語は分岐して開いていく可能性の中にあるんだ」と唱えたのです。

 ああ、時間切れ。続きはまたの機会に。(汗)

*1:だって「更新期の文学」は高いんですもの!