可能性の開かれた物語その2
昨日の続きです。
大塚英志さんの「キャラクター小説の作り方」では「クロード・ブレモンの説話論」の説明の前後(163〜166ページ)で、そのストーリー構造を持つ例をいくつか挙げています。
このあと「キャラクター小説の作り方」ではTRPGに注目し、「ロードス島戦記リプレイ」を例に、どうやってキャラクターが立ち、キャラクター小説ができていくかを説明しています。このキャラクター小説の持つリアリズムが『「キャラクター」という生身でないものの中に「私」が宿っている』「まんが・アニメ的リアリズム」です。大塚英志さんはこれを「ゲームのような小説」と呼んでいます(「キャラクター小説の作り方」124ページ)。無理矢理まとめると次のような感じになります。
済みません。「キャラクター小説の作り方」を読み直してみたところ、大塚英志さんは
今日の「スニーカー文庫のような小説」は「アニメやまんがのような小説」か「ゲームのような小説」のいずれかによって構成されます。
と、「まんが・アニメ的リアリズム」とゲーム起源の小説をすでに区別しています。その後の東浩紀さんによる「まんが・アニメ的リアリズム」と「ゲーム的リアリズム」の対比は、どうやらこれを発展させたもののようです。
一方、東浩紀さんは「動物化するポストモダン・2 <補遺> ゲーム的リアリズムの誕生」で「まんが・アニメ的リアリズム」は開かれた可能性を一人の「私」に収束させている両義的なものだと言っています。そして今度は「テキストアドベンチャー」や「可能世界」に注目し、開かれた可能性つまり分岐を損なわないままキャラクター小説にしてしまう「ゲーム的リアリズム」を提案するのです。これはどういうことかというと、「ゲーム的リアリズム」では「私」は一人のキャラクターではなく、可能性を失わないまま複数のキャラクター(=物語を背負ったキャラ)に宿るのです。無理矢理まとめると次のような感じになります。
- 可能性の開かれた物語
--TRPG→1人のキャラクターに「私」が宿る→まんが・アニメ的リアリズムによるキャラクター小説
ここで東浩紀さんが「ゲーム的リアリズム」によって解釈できる作品として例示するのが「All You Need Is Kill」です。「All You Need Is Kill」を読んだ方なら上の枠内で言わんとしていることがなんとなく分かって頂けるのではないかと思いますがどうでしょう。
……と、ずいぶん長々と書いてしまいましたが、id:ni-toさんの「更新期の文学」の感想で言われている”分岐のもう片方のエンドを想像できる事”は、上の枠全体、つまりクロード・ブレモンの「可能性の開かれた物語」であって、「ゲーム的リアリズム」そのものというよりそれを含むより一段広い捉え方なのではないかと思います。「≒ゲーム的リアリズム」と言えるかも知れません。中途半端な知識でいい加減なことを書いて済みません。(汗)
- 追記(というか言い訳)
上で書いていることは私のフィルターが掛かったかなり無理矢理な説明ですので、ちゃんと知りたい方は原書を読んだ方が良いと思います。(汗汗)
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物語消滅論―キャラクター化する「私」、イデオロギー化する「物語」 (角川oneテーマ21)
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