「終わらない物語」も「終わる物語」も同時に肯定する物語
イマイチよく分からない東浩紀さんの唱える「ゲーム的リアリズム」を、これまでとは別方向から捉え直してみるためのメモ。
- 「終わる物語」と「終わらない物語」
http://d.hatena.ne.jp/kim-peace/20060608/p3
http://d.hatena.ne.jp/kaien/20060609/p1
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- 便宜的に物語を不可逆な「終わる物語」と、繰り返される「終わらない物語」に分けてみる。
All You Need Is Kill (スーパーダッシュ文庫)
- 作者: 桜坂洋,安倍吉俊
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2004/12/18
- メディア: 文庫
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- 東浩紀さんが「ゲーム的リアリズム」を説明する際に絶賛する桜坂洋さんの「All You Need Is Kill」は
- 作品の大半の部分は繰り返される「終わらない物語」であるが、
- 最後に繰り返しを脱出して「終わる物語」へと進む。
- 東浩紀さんが「ゲーム的リアリズム」を説明する際に絶賛する桜坂洋さんの「All You Need Is Kill」は
- 「終わる物語」は肯定された。では「終わらない物語」は?
印象論で言うならば、閉域(繰り返される日常=悪夢)からの脱出方法が、メタフィクション的にメタレベルに向かうものではなくて、なんというか、ゲーム世界からプレイヤー世界に移行するような感じへと変わっている。「どんな選択をしても等価だ、世界は無数に並列しているんだ」というシニシズムを突破するとき、『うる星2』が最終審級を探す旅に向かうとすれば、『時をかける少女』や『ひぐらしのなく頃に』では、最初から「この世界の審級」と「プレイヤーの審級」が区別されていて、だから虚構(閉域)も現実(外部)も同時に肯定されるような、そんな世界観が導入されている。
渦状言論-ひぐらしのなく頃に
http://www.hirokiazuma.com/archives/000242.html
上の文章を「All You Need Is Kill」に当てはめてみると……
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- 「All You Need Is Kill」は
- 最終的には「終わらない物語(=閉域=繰り返される日常=悪夢)」から脱出して「終わる物語(=外部)」へと着地する。
- しかしそれによって「終わらない物語(=閉域)」は否定されるのではなく、逆に肯定される。なぜならば、
- 「All You Need Is Kill」は
定型句しか言えない、村の長老はほざきやがるのです。
「さすがは×××どの。ゆうしゃの血を引くそなたを、わしはしんじておったぞ」
クソばかやろう。
この体には勇者の血などというものは流れていません。お願いだからほめないでください。わたしはそんなたいしたものじゃないただの凡人なんです。それに誇りを持っているんです。ここまで来たのも努力したからなんです。指の皮をひんむいてマメをつくったんです。偶然でも運命でもイヤボーンでもありません。必殺の一撃が出るまで何百回もリロードしたんです。この勝利は必然なんです
桜坂洋「All You Need Is Kill」あとがき
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- 主人公が(ゲームのように)繰り返される「終わらない物語」の中で(プレイヤーとして)修練を積むことで「終わる物語」へと脱出するから。繰り返される「終わらない物語」は無駄にはならない。
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- どうもこの『「終わらない物語」も「終わる物語」も同時に肯定されること』が「ゲーム的リアリズム」の鍵の一つらしい。
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私が「ゲーム的リアリズム」を持つと考えてきた、桜庭一樹さんの「7人の女の子をめぐる7つの物語」や「赤×ピンク」、谷川流さんの「学校を出よう!」では『「終わらない物語」も「終わる物語」も同時に肯定』されているのでしょうか。そこのところは、ゆっくり見直していきたいと思っています。先は急ぎません。