見る立場と見せる立場〜演劇ものとして読む「銀盤カレイドスコープ」

小説では一人称か三人称でも一元視点にして、読者に感情移入させるのが、小説のアドバンテージを生かした戦略なのだと言えるのだが、明確に「感情移入させるぜ」という戦略を採っている小説は少ない。最近読んだものだと、「銀盤カレイドスコープ」くらいだ。


東雲製作所渉外部 (2006-12-28)

 海原零さんの「銀盤カレイドスコープ」は一人称の小説ですが、多くの一人称ライトノベルとは異なる点があります。それは主人公が「見る立場」に居るとともに、見られる立場、というよりも「見せる立場」に居ることです。「銀盤〜」はフィギュアスケートを題材にしたスポーツ小説であると同時に、主人公の立場から考えると「演劇もの」であると解釈することができるのです。

「銀盤〜」は大きく2つの局面に分けて読むことができます。

    • 主人公桜野タズサの内面が描かれるトレーニングのシーン
    • タズサの内面と、それに支えられた外面が描かれる演技(試合)のシーン

 この構造には少なくとも2つの特徴があります。

 1つは内面と外面のギャップが激しいこと。トレーニング中はともかくとして、演技中のタズサは「見せる立場」に徹します。「見せるための外面」は普段のタズサとはほとんど別人で、ある意味、自分を守るための痛々しい心の鎧と捉えられなくもありません。ひとたび外面がほころぶと、一気に内面まで崩れ去ってしまいます。しかしタズサは外面だけを取り繕うのではなく、内面から自分を築き直していくのです。

 2つ目の特徴は演技の内容がトレーニングを含めた作品全体の展開と関連付けられていることです。一種のメタ構造ですね。

 例えば9巻で、タズサは「シンデレラ」をテーマに前半と後半で2回演技を行います。「シンデレラ」はご存知の通り前半と後半で主役のシンデレラの立場が大きく変わります。この変身自体がシンデレラのキャラクターであり「シンデレラ」という話そのものと言っても良いでしょう。そしてタズサが演じる2回の「シンデレラ」の出来は、「シンデレラ」作中の前半と後半の内容であり、ひいては「銀盤〜」9巻の前半・後半の展開そのものでもあるのです。

 これらの特徴はシリーズ全体の主役であるタズサだけではなく、他のスケーター、ヨーコ、キャンドル・アカデミア、至藤響子、ドミニク・ミラーにもあてはまります。

 一方、ガブリーやリア・ガーネットの内面はほとんど描かれません。しかし演技内容が作品の展開と一致するので、タズサや至藤響子と同じようにガブリーやリアにも内面が存在することを意識できるのです。だからこそ

今回の見所はなんといってもリアというキャラクターに尽きるだろう。幼少期からその天才ぶりを発揮し、あたりまえのように銀盤を支配する小柄な美少女。

 彼女はいったいその澄んだ瞳の奥で何をかんがえているのか? それは〈銀盤カレイドスコープ〉最大の謎だった。ある意味では、今回もその謎はとけない。しかし、この物語のクライマックスはリアの存在なしに語れない。

(中略)

リア・ガーネット、神に選ばれた天才は、その努力を、刻苦を、研鑚を、たやすく蹂躙していく。その存在感はまさに圧倒的。ただの滑る長門有希じゃなかったのか!

 そして、そのリアの存在感を踏まえた最終巻の展開はじつに意表をつく。まさかまさかこんな展開になるとは。

 しかし、それは決してたんなる意外性ねらいの奇策ではなく、これまでの主題をなぞるものなのである。お見事としかいいようがない。


Something Orange (2006-12-6)

といった捉え方が可能なのです。しかし海燕さんはリア・ガーネットを長門有希だと思っていたのか。そうなのか。