光明寺茉衣子を消費しながら〜キャラクターの生死は拡散されていく、けれども
私自身は件の「ゲーム的リアリズム」が今ひとつピンと来ていないので、
むむ、ゲーム的リアリズムの中の萌えキャラとしての長門有希についてのメモで、平和さんを納得させられたと思っていたのに。(笑)
(ちなみに「ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2」192ページには「ぼくらは虚空に夜を視る」「涼宮ハルヒの憂鬱」「左巻キ式ラストリゾート」「ブルースカイ」などもゲーム的リアリズムの視点で分析可能と書いてありますよ。)
では長門有希ではなく光明寺茉衣子でもってとりとめもなく語りましょう。と言っても私も「ゲーム的リアリズム」がなんたるかを理解している自信はないですけれども。
以下、「学校を出よう!」3巻のネタバレを含みます。
- キャラクターだから描けること
「ゲーム的リアリズム」とは乱暴に言いかえれば、「複数の物語を並列的に生み出す」あるいは「物語を飛び出していってしまう」というキャラクターの特性によって支えられた説得力だと考えています。
学校を出よう!〈3〉The Laughing Bootleg (電撃文庫)
- 作者: 谷川流,蒼魚真青
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たとえば「学校を出よう!」3巻282ページのシーン。見分けの付かない2人の光明寺茉衣子(水)(桃)のどちらか片方が消滅し、もう一方がそれを見守る場面ですが、このシーンのせつなさというのは、あくまで分裂・拡散し100%死ぬわけでも100%生き残る訳でもなくなっている光明寺茉衣子というキャラクターだからこそ成り立っているのではないでしょうか。
そのせつなさは、大塚英志さん・東浩紀さんの分類で言うところの「自然主義リアリズム」「まんが・アニメ的リアリズム」が描く真剣な死よりも軽いものかも知れません。しかし「自然主義リアリズム」「まんが・アニメ的リアリズム」では絶対に描くことのできない演出でもあります。このせつなさの演出こそ、「ゲーム的リアリズム」が表出したものではないでしょうか。
- <シム>というキャラクターの2次創作的消費の寓話
「学校を出よう!」3巻における光明寺茉衣子その他キャラの分裂・増殖は作中で、<シム>という想念体の一種として説明されます。<シム>はあるキャラクターAを別のキャラクターが「想う」ことによって発生するコピーA'のこと。
人間は、それぞれの現実認識によって、まったく違う世界に住んでいる。
とおっしゃる谷川流さんらしい設定ですが、しかしこれって要するに読者があるキャラクターをネタに2次創作しているようなものです。そして増殖する2次創作コピーは、オリジナルをよそに一人歩きし始めるのです。
- オリジナルがどれか分からない
オリジナルの光明寺茉衣子は、高崎若菜が作った<シム>の茉衣子と見分けが付かなくなってしまいます。この見分けの付かない二人が茉衣子(桃)と茉衣子(水)です。観音崎滋もオリジナルと<シム>が区別できません。これもキャラクター消費によく見られることだと思います。
- シミュラークルとシミュレーション
「<シム>とはなかなかよい命名ですね。シミュラークルのSIMでしょうか」
「シミュレーションではないかな」
「シミュラークル」はオリジナルなきコピー。
「シミュレーション」はオリジナルのあるコピー。
素直に読めば抜水優弥はすでにオリジナルが死んでいる高崎春奈の<シム>を望んでおり、宮野秀策は自分が作った茉衣子の<シム>にオリジナルがあることを認識済みだということになるのでしょう。しかし、谷川流さんの「オリジナルがあることとは何か。オリジナルとは何か」という自問自答のようにも読めます。
コピーをさらにコピーにかけるとどうしたって元情報は劣化する。イメージによって発生した想念体は不完全なコピー人間で、そこから出てくるコピー人間はさらに不完全になる訳だ。
でもコピーしているだけでは劣化を待つだけらしい。
- 縞瀬真琴という機械仕掛けの神が振るサイコロ
これは「ゲーム的リアリズム」とは直接関係ないかも知れませんが、3巻の終盤に、今まで事態を放置していた縞瀬真琴が突然収拾に乗り出すと言うご都合的展開があります。「機械仕掛けの神」という奴ですね。桜坂洋さんの某シリーズならここでタライが落ちてきます。
真琴以外のキャラクターは他のキャラクターを認識することで<シム>を生む。つまりキャラクターを拡散・増殖させるのですが、ここでの真琴は「神」の視点からキャラクターを消滅・収束させます。とはいえ茉衣子や観音崎滋のようにオリジナルがどれだか分からなくなってしまうと、どこに収束するかも分かりません。サイコロを振るようなものです。(もちろん、オリジナルの茉衣子がどこにいるかは最初から決まっているので、真琴がどうしようともどこに収束するかは決まっているはずですが、その収束点がどこなのか真琴が観測しないと分からない以上、真琴がサイコロを振っているのと同じように思えるのです。)恐らく谷川流さんは「シュレディンガーの猫」の思考実験から<シム>の設定を思いついたのでしょう。
- 自分が消える確率は0%? 50%? 100%?
自分は消えますが、自分と同じ意識を持つ存在は残ります。それは消えることにはならないのではないでしょうか。
(中略)
わたくしはそれを恐れていたのですね。自分が消えることを予測して、自分と別の意識が残ることのないように。これも自己保存本能の一つなのでしょうか。
どちらがオリジナルか分からなくなった茉衣子(水)と(桃)は、最後まで同じ行動を取り、真琴が振るサイコロの目を受け入れます。茉衣子(水)にとっても茉衣子(桃)にとっても自分が消える確率は50%。しかし自分と同じ意識を持つ存在が消える確率は100%で、自分と同じ意識を持つ存在が残る確率も100%です。
- 「ゲームのような死」の先に
光明寺茉衣子は自分が絶対に消えない選択肢を取ることで、もう一人の自分が消えるのを目の当たりにしなければなりませんでした。それは大塚英志さんが出した
「ゲームのような死」の表現方法の先に、リアルな人の死(それはリアルな生、の裏返しでもあります)をいかに描きうるのかやはり小説の一分野であるこのジャンルの作り手は考える必要があります。
という課題に対する、桜坂洋さんの「All You Need Is Kill」とはまた違った形の返答になっているのではないでしょうか。
- おまけ:観音崎滋の選択〜感情のメタ物語的詐術
東浩紀さんは「ゲーム的リアリズムの誕生」において、「涼宮ハルヒの消失」でのキョンの選択が「感情のメタ物語的な詐術」に当たるとしています。このキョンの選択と同じことが、「学校を出よう!」3巻276ページの観音崎滋と宮野の会話でも行われています。というか「学校を出よう!」3巻の方が「消失」より前に刊行されているので、「消失」でのキョンの選択は「学校を出よう!」3巻と同じネタの使い回しのようです。