『「ハルヒ」は「エヴァ」の継承者か』への違和感
とりあえずいきなり「ゲーム的リアリズム」とか出てくるとは思いませんでした。
その辺についての解釈はid:giolumさんにお願いしたいところ。
平和の温故知新@はてな-日経のハルヒとエヴァ比較論を読んで適当に思ったこと
http://d.hatena.ne.jp/kim-peace/20071213/p1
とりあえずいきなり私に振られるとは思いませんでした。
その辺についての解釈は、えーと誰にお願いしようか……え、私が書けって?
- 可能性の束に萌える
実のところ、私の「ゲーム的リアリズム」に対する解釈は、上記の元記事を書かれている石鍋仁美さんの解釈とは少々異なります。元記事が決定的におかしなことを書いている、という訳ではないにしても。
現実は一回性のものではなく、何度でもやり直せる。この感覚が東氏のいう「ゲーム的リアリズム」だ。
うーん、微妙。そうとも言えますが、それだけではないとも思います。東浩紀さんの唱える「ゲーム的リアリズム」とは、物語の可能性の束(言い換えると「別の物語を想像させる力」)によってキャラクターに説得力が与えられている、ということだと考えております。
バッドエンドなら(あるいはそうなりそうなら)やり直せばよい。
これにははっきりと違和感を覚えます。確かに分岐型ゲームはやり直しがききます。しかしバッドエンドだからやり直すのではありません。ハッピーエンドでもやり直すのです。むしろ分岐型ゲームのプレイヤーは
「バッドエンドを見ずに『○○*1萌え〜』と軽々しく語るなど、笑止」
と心の中で叫ぶものではないかと思うのですがいかがでしょうか。>ギャルゲーマーの方
つまり「やり直す」のは「たったひとつのハッピーエンドを見たいから」ではなくて、「ハッピーエンドもバッドエンドも見たいから」なのです。ハッピーエンドもバッドエンドもあって、初めてそのキャラクターに魅力を感じる、ということです。いずれにしろオタクのご都合主義には違いないかも知れませんが。
- 参考
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- ゲーム的リアリズムの中の萌えキャラとしての長門有希についてのメモ:最後に「えりゅえりゅDAYSさん」の「金の長門銀の長門」を引用して、消失長門と通常長門の両方があってこその長門であるという持論を展開。痛いって言うなぁ!
*1:お好みのギャルゲーキャラをお入れください