「キャラ-キャラクタ-ナラティブ」はユニークですが何か足りない

認知科学徒GPY-テヅカ・イズ・デッドにおける東-伊藤モデルの可能性
http://d.hatena.ne.jp/cogni/20060316/p1



 id:cogniさんの「キャラ-キャラクタ-ナラティブ」のアイデアにびっくり。とてもユニークで、良いヒントになると思います。ひょっとするとラカンの3分法に当てはめられるかも知れませんし。その場合、キャラ=想像界、キャラクター=抽象界、ナラティブ=現実界でしょうか。

 ただ、「キャラ-キャラクタ-ナラティブ」のアイデアに対しては疑問点もあります。

 「キャラ-キャラクタ」の部分はとても納得です。キャラっぽいかキャラクターっぽいかを決めるのはリアリティーで、そのリアリティーは物語によって注入される、と。

 しかし「キャラ-ナラティブ」「キャラクタ-ナラティブ」の部分の説明は、私には「キャラ-キャラクタ」の説明を言い換えているだけのように思えます。「キャラ-キャラクタ-ナラティブ」の三者が相関関係であり共立関係であるならば、キャラクターによって「キャラ的であるかナラティブ的であるか」が決められ、キャラによって「キャラクタ的であるかナラティブ的であるか」が決められるべきだと考えるのですが、私にはそれらの関係が成立しないように思えます。

 ……と言いつつ、「じゃあお前は代わりのアイデアがあるのかよ」と言われると私の貧弱な頭では思いつきもしないのですが。

キャラの無意識性はもっと考えられて良いと思います

私は先ほどまで,ユング(Carl Gustav Jung)の心理学用語を「キャラ/キャラクター」の理解に反映できないだろうか,などと思考していたのでした。


博物士-偽春菜とか言うの禁止
http://d.hatena.ne.jp/genesis/20060316

 アニマ、アニムスと言った「元型」は普遍的無意識の中に元々並列的に存在する概念なので、「キャラ/キャラクター」の階層的なアイデアには合わないのではないかと思います。

 むしろ「アニマ、アニムス等の元型を無数に持つ普遍的無意識」を「元型のデータベース」と見なしてしまう方が適用しやすいのではないでしょうか。といっても萌え属性が全人類の無意識の中にあるとするのは極論過ぎるので、普遍的無意識ではなく集合的無意識と呼ぶべきでしょうが。

 私は東浩紀さんの言う「データベース」が「萌え属性を組み合わせたキャラ」に当るのか、それともキャラのさらに奥にある「萌え属性のデータベース」に当るのか、イマイチ良く分かっていません。が、いっそキャラクターを

の三層で考えて、それをユング

に当てはめてみたら面白いのではないかと思います。

  • さらに思いつき

 「キャラクター/プレイヤー」という階層構造があるのだとしたら、これを「意識/自我」に当てはめて、

という相似構造で考えられないだろうかとか……済みません、モデルを作ることが先行して、何の役に立つのか考えていませんね。ちょっと疲れているみたいです。もう寝ます。