観察者という立ち位置、あるいはシステム
済みません。「サマー/タイム/トラベラー」より前に「すべてがFになる」を読み終えてしまいました。(「サマー/タイム/トラベラー」も既に読み終えましたが。)
- 作者: 森博嗣
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1998/12/11
- メディア: 文庫
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私、ミステリーをほとんど読んだことがないのですが(ポーは「黒猫」しか読んだことないですし。ドイルは子どもの時に沢山読みましたが子ども向けのダイジェスト版だったしなぁ。)これはかなりまっとうなミステリーだと思います、多分。
で、「すべてがFになる」がまっとうなミステリーであるとしてなのですが、読んで「あれ?」っと思ったこと。探偵役の犀川助教授と萌絵(「S&M」と呼ぶそうですが)は、事件に関わっても変化しないんですね。探偵は当然、事件に関わる存在です。しかも「すべてがFになる」では探偵は当事者にもなっています。けれども、事件によって探偵の人生が変わるわけではないし、事件の謎が解決されようがされまいが痛くもかゆくも…いや、まぁ、探偵としてのプライドが傷つくかもしれませんが、命に別状はありません。作品によって違いはあるでしょうが、定形的な(古典的?本格?)ミステリーにおける探偵の立場と言うのは「事件」というストーリーに対して、あくまで部外者であり観察者であるようなのです。簡単にモデル化すると、
作品世界
探偵
↓(観察)事件というストーリー
探偵という存在が「事件」という劇中劇から一歩引いた位置に居て、「事件」を観察しているのです。別の言い方をすると、探偵だけが事件の当事者の中で別次元に浮いています。
こういう立場にいながら、探偵は事件を解決すると言う重要な役割を持っています。それは一方的な関係であり、探偵は事件を左右することがあっても、事件が探偵を左右することはありません。普段ミステリーを読まない私にとっては、このことがとても新鮮でした。
そして次に思ったこと。こうした探偵の「事件から一歩引いた観察者でありながら事件を解決してしまう役割」に似たものをどこかで見たぞ!そうだ!ブギーポップやキノだ!彼ら(彼女ら)も作中のメインストーリーからは一歩引いたところに立っており、自分自身はストーリーから影響を受けず、それでいて最後にはストーリーを解決してしまいます。その役割はキャラというより、その作品内の約束事、システムみたいな感じがしますね。
定形的なミステリーの探偵も、キノもブギーポップも、
作品世界
観察者
↓(一方的に観察、解決)メインストーリー
という枠組の中で「観察者」という作品世界のシステムとして動いているように思いました…って、こんなこと考えている私って、自分でもどこか変だと思います。(汗)