「ライナスの毛布の機能」についての無駄な深読み
新城カズマさんの「サマー/タイム/トラベラー」
- 作者: 新城カズマ,鶴田謙二
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2005/06/16
- メディア: 文庫
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を読んでいて、気になったのが次の1文。
饗子の腕の中で、悠有の体は斜めになってて、まるでライナスの毛布みたいだ。たぶん機能も似たようなものなんだろう。
「サマー/タイム/トラベラー」1巻63ページ
この「ライナスの毛布の機能」とは何でしょうか。「ライナスの毛布」というのは故チャールス・M・シュルツ氏のマンガ「ピーナツ」でライナス少年が肌身離さず抱いている毛布のことですね。「ライナスの毛布みたいだ」と書かれれば大体言いたいことは分かる気がします。しかし、そのことを描写する時に普通「機能」などという言葉を使うものでしょうか。なんだか変な感じがしませんか?
というわけで(どういうわけだ)、ここでは新城カズマさんが「ライナスの毛布の機能」という言葉を、少し深い意味で使っているのでないかと、無駄に深読みしたいと思います。
この先は「サマー/タイム/トラベラー」と桜庭一樹さんの「赤×ピンク」「推定少女」「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」「少女には向かない職業」などのいわゆる「地方都市シリーズ」のネタバレありです。
「ライナスの毛布」というと、私は次の文を連想します。
おそらくこのような自己投影像としての「ピンク」の相手キャラクターは、「赤」のキャラクターに欠落している要素を代償している存在だと言ってよいだろう。自己の欠落を埋めてくれる相手と同一化することで、「一人では世界と対峙できないわたし」という存在をなんとか保たせているわけである。
それを説明する最もわかりやすい例としては、スヌーピーのライナスがいつも肌身離さず持っている毛布がある。
いきなりの引用でちょっと分かりにくいですが、桜庭一樹さんのいわゆる「地方都市シリーズ」に登場する「赤」のキャラクターと「ピンク」のキャラクターの関係を
『「ピンク」のキャラクターは「赤」のキャラクターにとっての「ライナスの毛布」である』
と言いかえられるのではないかということです。ここで蟲森さんは大塚英志さんの「人身御供論」から「移行対象」を使った発想を引用されています。まずは「移行対象」の説明部分を抜き出してみましょう。
「移行対象」とはD・W・ウィニコットが『遊ぶことと現実』のなかで提示した概念である。例えばこの概念はコミック『チャーリー・ブラウン』におけるライナスの毛布や『くまのプーさん』におけるクリストファー・ロビンの「プーのウイニー」といった例でしばしば説明される。
(中略)
ウィニコットによれば、このような幼児のお気に入りのものは、幼児が「母親と融合している状態から母親の外部にあり独立したものとして存在する状態」へと移行していく、あるいは「現実を認識し受け容れる能力がない状態」から外的世界を受け容れられる状態へと移行していく際の「中間領域」として両者を媒介するものだという。
(中略)
ウィニコットによれば、「移行対象」をめぐる幻想は最終的には「幻滅」されることで「現実」への軟着陸を可能にするのである。「移行対象」は意味(=幻想)を徐々に失い忘れ去られる運命にあり、「幻滅」を引き受けることも「移行対象」の重要な役割なのだ。
大塚英志「人身御供論 通過儀礼としての殺人 (角川文庫)」(角川文庫)226〜228ページ
これを踏まえた上で大塚英志さんは
通過儀礼の発端におけるパートナーを「移行対象」という概念のアナロジーで説明したい。
大塚英志「人身御供論 通過儀礼としての殺人 (角川文庫)」(角川文庫)226ページ
としています。さらっと書いてしまいましたが、「モノ」ではなく「キャラクター」を「移行対象」と見なしたこの発想の転換が、「人身御供論」のキモかも知れませんね。
この発想を桜庭一樹さんの「地方都市シリーズ」に当てはめたのが、蟲森さんの次の文章です。
「赤×ピンク」の関係とは、つまり「赤」のキャラクターにとって「ピンク」のキャラクターが〈移行対象〉としてあることを示すということだろう。しかし、このような〈移行対象〉は、その所有者の成熟とともにやがて捨て去られなければならないものでもある。
そして「赤」のキャラクターは、通過儀礼を通して「ライナスの毛布」たる「ピンク」のキャラクターを失っていく訳です。
蟲森さんが引用されているのはここまでのようです。これだけでも凄い観察眼だと思います。私も「赤×ピンク」と「人身御供論」を読んでいましたが、自力でここまで思い至らなかったのですから。しかし、「人身御供論」にはまだ先があります。
ビルドゥングス・ロマンにおいて描かれる供犠殺害モチーフは、「父殺し」やまして「母殺し」などではなく「移行対象殺し」とでも呼ぶべき手続きなのである。
大塚英志「人身御供論 通過儀礼としての殺人 (角川文庫)」(角川文庫)226ページ
犠牲死や供犠は物語の中では実際の「死」としてしか描かれないが、現実の中ではそれは「個人として共同体の外部に出る」ということに転換できる可能性を指摘する。
(中略)
これは、共同体内部でのみ有効な通過儀礼に依存したり、物語を消費したりすることで手に入る成熟とはまったく別の形の”個としての成熟”になるはずだ。
大塚英志「人身御供論 通過儀礼としての殺人 (角川文庫)」(角川文庫)257ページ(香山リカさんの解説)
「ビルドゥングス・ロマン」はこの場合「通過儀礼」と置き換えて読んでも良いと思います。ここまで書かれてしまうと、もう私の書いた「少女たちの通過儀礼」などお子様のおままごとレベルみたいですが、それはさておきまして(汗)、ここで冒頭の「サマー/タイム/トラベラー」の引用をもう一度見てみましょー。
饗子の腕の中で、悠有の体は斜めになってて、まるでライナスの毛布みたいだ。たぶん機能も似たようなものなんだろう。
「サマー/タイム/トラベラー」1巻63ページ
ここで登場する「ライナスの毛布」も「移行対象」と考えてみてはどうでしょうか。つまり
『饗子(赤)にとって悠有(ピンク)は「現実を認識し受け容れる能力がない状態」から外的世界を受け容れられる状態へと移行していく際の「中間領域」として両者を媒介するものである。やがて饗子(赤)の成熟とともに悠有(ピンク)は共同体*1の外部に出ていく運命にある。その過程は悠有(ピンク)にとっての成熟でもあるだろう。*2』
と、新城カズマさんは暗に書かれているのではないでしょうか。今年のSF大会で大塚英志さんのキャラクター小説論に触れられていたことからして、新城カズマさんが「人身御供論」のアイデアをご存知の可能性はかなり高いと思います。そしてそれは桜庭一樹さんの「地方都市シリーズ」における「赤×ピンク」の関係とも同じ構造を持っている*3 *4、と深読みしてみました。
…こんなことばかり考えているから、私は本を読むのが遅いのですね。でもほら、「無駄なことほど楽しい」って言うじゃないですか。(笑)