キャラ⇔キャラクターの切り替えとリアリティーの操作
目を八十年代以降に戻せば、人々は、マンガの「読み」の快楽において「キャラ」のレヴェルを中心に自足できる群と、テクストの背後に「人間」を見てしまう、つまり「キャラクター」としてしかマンガを読めない群とに分かれることが見てとれる。
これは、人々の「語り」や消費行動の観察から経験的に導き出した推論だが、おそらく、「キャラ」のレヴェルの読みが可能な前者の群は、「キャラクター」としての読みも可能としており、テクストの種類や機会に合わせて自在にスイッチングを行なっているように見える。
伊藤剛「テヅカ・イズ・デッド」118ページ
質疑応答で「ライトノベルと既存の小説の手法の違いは?」という質問が出た際、賀東招二さんが「リアリティの操作」と答えられていました。例えば「フルメタル・パニック!」ならば、短編(陣高編)では爆弾が至近距離で爆発しても誰も死なないが、長編(ミスリル編)ではそういう訳にはいかない、と。
碧い瞳の中の義憤-第44回日本SF大会 HAMACON 2 [ライトノベル作家座談会 〜僕たちメッタ斬りにされちゃいました]レポート
http://ureshino.cup.com/ladygunner/talk/talk23.html
「ライトノベル作家座談会」での賀東招二さんの発言は、当時は「そんなもんか」程度に聞き流してしまった記憶があります。が、伊藤剛さんの「テヅカ・イズ・デッド」や大塚英志・大澤信亮さんの「ジャパニメーションはなぜ敗れるか」を読んで、賀東招二さんが大変重要なことを言っているのに気付きました。
「フルメタル・パニック!」の場合、ミスリル編はリアリティー*1があります。かなり真剣に作り込んでいます。登場人物は銃で撃たれれば傷つき、生死をさまようキャラクターなのです。ところが陣高編にはリアリティーはほとんどありません。むしろ積極的に壊しています。ミスリル編と同じ登場人物が爆発に巻き込まれても記号としての絆創膏が付くだけです。ここでは登場人物はキャラなのです。つまり「フルメタル・パニック!」という一つの作品の中で
という可逆な切り替えがあるのです。
現在のライトノベルの読者は当たり前のようにこの切り替えに付いていくことができます。むしろその切り替えによる落差やメリハリに、面白さや迫力を感じています。
一方で「テヅカ・イズ・デッド」や「ジャパニメーションはなぜ敗れるか」で語られている「マンガがいかにしてリアリティーを獲得していったか」を読んでしまうと、この「切り替え」は文芸一般ではあまり当たり前ではないことが分かります。どうやら自然主義的リアリズムあるいは科学的リアリズムというものは首尾一貫した客観性を求めるようですし、そうして一作品の中で一貫したリアリティーを追い求め、望んできた人達は「リアリティー⇔ノンリアリティーの切り替え」を見たらぽかんと口を開けて「そんなのアリ?」と思ってしまうでしょう。
けれども実は「ジャパニメーションはなぜ敗れるか」で紹介されている大崎のぼる「愉快な鐵工所」(1940年)や手塚治虫「勝利の日まで」(1945年)、「テヅカ・イズ・デッド」で紹介されている手塚治虫「地底国の怪人」(1948年)といったマンガ作品では作中でこの「切り替え」が行なわれているのですよね。別の言い方をすると、マンガの中にリアリティーが築かれていく過渡期の作品なのでノンリアリティーとリアリティー、キャラとキャラクターが混在しています。問題はこれらの作品を過渡的な中途半端なものと捉えるか、それともこれはこれで完成された作品と見るかです。私は不覚にも「愉快な鐵工所」や「勝利の日まで」を見て「をを!良いじゃん!」と思ってしまいました。
この後、手塚治虫はキャラとキャラクターを分割し、キャラクターを徹底して(内面的な意味で)リアルに描いていったようです、この過程を「テヅカ・イズ・デッド」ではキャラの「隠蔽」と呼んでいます。しかしその後何十年かが経過してどうなったのかというと、最初に挙げた「フルメタル・パニック!」のようにキャラの隠蔽はすっかり崩れ去ってしまっています。コミックとライトノベルの違いはありますが、読者はキャラクターの後にキャラが隠されているのを薄々気付いていて、突然キャラが前面に出てきても受け入れているのです。少なくとも私はそうです。*2大塚英志さんは「ジャパニメーションはなぜ敗れるか」で皮肉をこめて、現代のキャラレベルのブームはポストモダンの現象などではなく戦前に先祖帰りしているだけだ、という主旨のことを言っていますが、それなりに当っているかも知れません。
あとライトノベルに限れば、この「切り替え」が起きたのは「書き下ろし長編+連載短編」で売るという富士見ファンタジア文庫とドラゴンマガジンの戦略が原因だと思います。恐らく神坂一さんの「スレイヤーズ」が最初だと思うのですが、書き下ろし長編はリアリティーを構築しなければならなかった*3のに対し、雑誌連載の短編は一発ギャグで読者を掴むためにノンリアルでなければならなかったのです。
ライトノベルに限らなければもっと早くからこの「切り替え」が起こっていたのでしょうね。