谷川流作品にゲーム的リアリズムはないのか

 コミケ波状言論の「ギートステイト・ハンドブック」を買ってきました。ni-toさんによると当日桜坂洋さんが東浩紀さんとともにブースにおられたそうですが、私が行った時には桜坂さんの姿は見えず、東さんはバンダナを巻いて売り子をされていました。折角ご本人から直接買えるのだからと「美少女ゲームの臨界点」と「美少女ゲームの臨界点+1」も買いました。「ギートステイト・ハンドブック」とあわせて4500円也。

ギートステイト・ハンドブック」には2006年日本SF大会内で開かれた、東浩紀さん、桜坂洋さん、新城カズマさんによる対談が「SFとライトノベルの未来」と題して収録されています。

 桜坂さんについては、去年の京都SFフェスティバルの講演で「作品の見方が東浩紀さんに近いなぁ」と感じていたのですが、もうすっかり東さんと意気投合していますね。新城さんは去年の京フェスと同じく言葉を慎重に選んでいます。東・桜坂路線とは違う視点を模索している感じ。

 桜坂さんが桜庭一樹さんを「野生の勘」と解説しているのは爆笑。大丈夫ですか、身の危険を感じませんか、そんなことを言って。個人的には、桜庭一樹さんの最近の一連の作品はキャラクター小説には違いないのですが自伝的・私小説的な要素もあるので一般文芸にも受け入れられやすいのではないかと思っています。

 おおそうだ! 今思いつきました。桜庭一樹さんの「地方都市の少女」シリーズは「自然主義的リアリズム」と「まんが・アニメ的リアリズム」と「ゲーム的リアリズム」の3つを股に掛けた作品だというのはどうでしょう。駄目?(笑)

 対談の後半は谷川流さんの「涼宮ハルヒ」の話題が繰り返し登場。桜坂さんによると作家としてのバックボーンは谷川さんも桜坂さんも同じだけれど作品への表現の仕方が違うとのこと。東さんは技量を認めながらも辛口の評価。従来のコラム等で「ハルヒはメタな作品」と書いていましたが、これは「メタキャラクターによるキャラクター小説」という意味のようですね。そして「谷川さん的な方向性がラノベの終着点だとしたら、ここには出口がないような気がする」としています。

 ただし、この対談での東浩紀さんの谷川流作品評にはいろいろ腑に落ちないものがありました。あまり長く書いてもアレなので、1点だけにしぼります。東さん自身が提唱している「ゲーム的リアリズム」についてです。

 東さんは「ゲーム的リアリズム」にフィクションの可能性を見出そうと繰り返し主張しています。私は谷川流作品にもこの「ゲーム的リアリズム」があるのではないかと考えてきました。谷川流作品にはしばしば「複数の私」が登場します。私はこのブログで何回かそれを書いて自分でも引用してきたのですが、あまりそれを繰り返しても説得力に欠けるので他の方の文章を引用します。

「学校」シリーズのほうに顕著なのだが、谷川流の発想の根底には同一人物の複数顕現または複数人物の同一相貌があるように思われる。これをさらに要約すれば(非常に陳腐な表現で申し訳ないが)人格同一性のゆらぎということになる。この基本テーマを骨格としてSF的な個別テーマで肉付けしたのが谷川作品なのである。


たそがれSpringPoint-いかがなものか。-2004/08/05
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0408a.html#p040805a

 この「人格同一性のゆらぎ」は東浩紀さんの言われる「メタなキャラクター」と無関係ではなく恐らく同根のものでありましょうがそれは今は置いておきまして、「人格同一性のゆらぎ」が主人公に適用されるときそれは「私のゆらぎ(=複数の私)」になります。この「私のゆらぎ」が喪失されていく過程でのせつなさが、谷川流作品の魅力の一つです。

 そんなふうに考えているものですから「ゲーム的リアリズム」という考え方を知ったとき、私は谷川流作品、とりわけ「学校を出よう!」を連想しました。「ゲーム的リアリズム」では「私のゆらぎ」は、キャラクターレベルではなくプレイヤーレベルで観察されることによって収束することになりそうですが、「学校を出よう!」でもこれに相当するシーンがあります。

 例えば「学校を出よう!」6巻終章・Bにおける宮野と<年表干渉者>の対面と続く終章・Cにおける宮野の独白は、宮野が「プログラムで動くキャラクター」から「自律するプレイヤー」のレベルへと移行した宣言だと解釈できます。不明瞭ですが「涼宮ハルヒの消失」156ページでキョンがエンターキーを押すシーンでも同じことが言えそうです。

 しかしどうも「ギートステイト・ハンドブック」収録の対談では東さんは谷川流作品に「ゲーム的リアリズム」を認めていないように見えます。私の勝手な勘違いだったのかなぁ……なんだか自信なくなってきました。(汗)

『うる星2』は単なるメタフィクションゲーム的リアリズムの作品じゃなかったけど、『時をかける少女』や『ひぐらしのなく頃に』はゲーム的リアリズムの作品で、そこにこの22年間の差が現れているとともに、なにか大きなパラダイムチェンジを感じる、この夏はそういう作品に2つも出会えてよかった、というのが僕が言いたいことです。ゲーム的リアリズムの話は、『動ポモ2』で少しは整理されるはずです。


渦状言論-ひぐらしのなく頃に
http://www.hirokiazuma.com/archives/000242.html

 とのことなので「動ポモ2」が無事本になったらじっくり読もうと思います。

 最後に「学校を出よう!」から好きなシーンを。谷川流さんのキャラクター造形の特徴がよく出ている箇所だと思います。

「兄さん」
 若菜が囁き返した。
「みんな見てるよ。もう……恥ずかしいなあ。あたしは春奈じゃないよ」
 解ってるさ。お前は春奈じゃない。あいつは完全に消え去ったわけじゃない。どこにもいないけど、いつもそばにいる。そんな存在にあいつはなったんだ。


谷川流学校を出よう! 6」終章・A 240ページ