ゲーム的リアリズムの私的解釈

 ファウスト誌上に連載された「動物化するポストモダン2」で「ゲーム的リアリズム」という概念に興味を持ったもののよく理解できず、東浩紀さんの講演に行って恐れ多くも直接質問してみたものの「もうすぐ『動ポモ2』が出ますのでそれを読んでください」と言われ、『動ポモ2』が出たので読んでみたもののやはり「ゲーム的リアリズム」が何だか良く分からず、あちこちで書かれている書評や感想を見ながらようやく自分なりに解釈が固まってきたのでメモ書き。

 なお、あまり厳格な定義に基づいて用語を使う訳ではないので、このメモ書きに学術的価値はないと思います。

伊藤剛さんの「テヅカ・イズ・デッド

テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ

テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ

の「キャラ/キャラクター」の概念を借りてもの凄く乱暴に言ってしまえば

 より詳しく言うと、

 だと解釈します。

  • 「キャラ」の魅力とは

キャラ/キャラクター」の概念における「キャラ」とは、可能性の束のようなものです。その魅力は東浩紀さんに言わせると「メタ物語的な想像力」です。

「キャラa」はある特定の「物語A」を背負い込むことで特定の「キャラクターA」になります。と言っても「キャラクターA」は「キャラa」であることを捨てた訳ではないのですがそれはひとまず置いておいて、この時、「キャラクターA」の魅力は1つの「物語A」で表現されると言えます。

 ところが実は物語は1つでなくて、幾つあっても構いません。つまり1つの「キャラa」は複数の「物語A」「物語B」「物語C」……「物語N」によって複数の「キャラクターA」「キャラクターB」「キャラクターC」……「キャラクターN」になる可能性を秘めています。そして魅力の強い「キャラ」ほど「物語」の数Nを多く想像させる、沢山の物語を背負い込めるのです。

キャラa→キャラクターA 物語A

キャラa→キャラクターB 物語B

キャラa→キャラクターC 物語C

     :

キャラa→キャラクターN 物語N

 実際にこの「キャラの魅力」が目に見える形で現れる好例が二次創作作品です。二次創作とは原作にはない「もし」の物語です。そして魅力の強い「キャラ」ほど、ファンによって多くの「もし」の物語が想像されるのです。つまり次のようにも言えます。

    • 「キャラクターA」の魅力は1つの「物語A」で表現される。
    • 「キャラa」の魅力は複数の「物語A」「物語B」「物語C」……「物語N」で表現される。
  • 「キャラ」の魅力を1つの作品で表現するには

 しかし「キャラ」の魅力が複数の物語によって表現されるとすると、それは二次創作の作品群のような形でしか実現できないのでしょうか。いや、1つの作品の中でもできる方法があるのです。答は簡単。1つの作品の中に「物語A」「物語B」「物語C」……「物語N」を作って並べてしまえば良いのです。

作品α

キャラa→キャラクターA 物語A(キャラクターA視点)

キャラa→キャラクターB 物語B(キャラクターB視点)

キャラa→キャラクターC 物語C(キャラクターC視点)

     :

キャラa→キャラクターN 物語N(キャラクターN視点)

 かくしてシナリオ分岐型美少女ゲームのような妙な作品ができあがります。しかしここで1つ問題が起こります。キャラクター小説はキャラクターに感情移入して読む作品なので、「物語A」を読んでいるときに「キャラクターA」に感情移入します。そして次に「物語B」を読み始めると「キャラクターA」への感情移入はリセットされて「キャラクターB」への感情移入に切り替わります。ということは、せっかく「物語A」「物語B」「物語C」……「物語N」を並べても最後に「キャラクターN」への感情移入が残るだけです。

 そこで上のような構造の作品にはそれぞれの「物語」内にある「キャラクター」の視点とは別に、「物語」が切り替わってもリセットされない「作品の中だが物語の外にある視点」が作られるのです。東浩紀さんは、この視点を美少女ゲームでキャラクターを操作するプレイヤーの立場になぞらえて「プレイヤー」の視点と呼びます。

作品α
(プレイヤーα視点)

キャラa→キャラクターA 物語A(キャラクターA視点)

キャラa→キャラクターB 物語B(キャラクターB視点)

キャラa→キャラクターC 物語C(キャラクターC視点)

     :

キャラa→キャラクターN 物語N(キャラクターN視点)

 このような「作品α」の読者は「キャラクターA」の視点で「物語A」を読んで「キャラクターA」に魅力を感じ、(リセットされて)「キャラクターB」の視点で「物語B」を読んで「キャラクターB」に魅力を感じ、……、(リセットされて)「キャラクターN」の視点で「物語N」を読んで「キャラクターN」に魅力を感じるとともに、リセットされない「プレイヤーα」の視点から「物語A」「物語B」「物語C」……「物語N」で表現される「キャラa」の魅力を感じ取るのです。

 こうして思考実験してみると、上のような作品は「キャラ」の魅力を表現すると同時に一応「キャラクター」の魅力も表現していることになりますね。リセットされますが。

ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2」で解説されている「ALL YOU NEED IS KILL」「ONE」「Ever17」「ひぐらしのなく頃に」「九十九十九」はすべて上のような構造を持っていると解釈できそうです。

  • 「キャラの魅力」がなければ「キャラクターの魅力」はないはず

「キャラ」の魅力を1つの作品で表現するには、上のような非常に回りくどい手続きが必要になります。そのため「キャラ」の魅力が個々の作品内から見出されたのは上のようなメタな作品が登場してからであり、「キャラクター」の魅力が見出されてからずっと後のことでした。しかし「キャラ/キャラクター」の概念において「キャラクター」が「キャラ」から生まれる以上、「キャラの魅力」がなければ「キャラクターの魅力」はないことになります。

ゲーム的リアリズム」「ゲーム的リアリズム」って言いますけど、キャラクターが死んではリセットされるような作品のどこに「リアル」があるんですか。人は一度死んだらおしまいなんですよ。そして「死」は「生」の裏返しでもある。一度きりの人生だから真剣に生きる。キャラクター小説が「リアル」を責任をもって引き受けるためにはきちんと「リセットされない死」を描かなければいけないんです。

 その考え方は半分は当たってますが、半分は矛盾してるんじゃないでしょうか。「死」が一度きりなのはその通りです。でも一つの「死」という終着点にまっすぐ進む一本道の「生」が魅力的でしょうか。「生」の魅力とは将来の可能性が沢山あることですよね。キャラクター小説では、沢山の「生」、沢山の「物語」を生み出す可能性を持っている「キャラ」の魅力、つまり「ゲーム的リアリズム」が最初にあるんですよ。それがあって初めて一度きりの「死」、一度きりの「物語」による「キャラクター」の魅力、つまり「まんが・アニメ的リアリズム」が成り立つんです。
 「キャラ/キャラクター」の概念のうち、「キャラクター」の魅力だけを見て、「キャラ」の魅力を無視しちゃ駄目なんですよ。

  • 問題点と思うところ

 東浩紀さんはキャラクター小説(ライトノベル)に「キャラ/キャラクター」の概念が当てはめられることを前提に議論を進めています。私もそれは感覚的に正しいだろうなぁと思っています。でもここのところが「ゲーム的リアリズムの誕生」ではイマイチきちっと論理的に補強されていないのですよね。「当てはまりそうだから、先に進もう」みたいな感じで。

  • あ、「コミュニケーション志向メディア」の話ができなかった

 それはまた後日にでも。いろいろもやもやと思っていることがあります。「プレイヤー」視点の導入で読者を作中に引きずり込んだら、その反作用で「作者」も作中に引き込まれちゃうよね、とか。