メタでなくてもゲーム的リアリズムは実現できるのでは

ゲーム的リアリズムな作品全てがこの「メタ物語的詐術」に至るというわけではないし、プレイヤーを幻視できなかったからと言って「これはゲーム的リアリズムではない」というわけでもない。ゲーム的リアリズムの着地点の一つとして「メタ物語的詐術」がある感じなのかなと。


星ぼしの荒野から-ゲーム的リアリズムとメタ物語的な詐術

 ほぼ同意ですね。「感情のメタ物語的な詐術」はゲーム的リアリズムな作品にとって100%必須ではないでしょう。

「感情のメタ物語的な詐術」はゲーム的リアリズムを単独の作品内で実現する場合の手段の一つに過ぎないのではないかと考えています。

 ゲーム的リアリズムはキャラが物語を飛び出していく特性、あるいはキャラが複数の物語を生み出していく特性を利用しているので、一つの物語で実現することが難しいです。単独の作品内でゲーム的リアリズムを実現させるためには、単独の作品の中に複数の物語がないと難しい。ですので作品内で物語をメタ視する構造になりやすいのでしょう。

ゲーム的リアリズムの誕生」でゲーム的リアリズムの作品例として挙げられているものはいずれもメタ構造を持っていますが、私はあれらは「ゲーム的リアリズムの作品例」というより「単独の作品内でゲーム的リアリズムが実現している作品例」ではないかと考えています。単独の作品ではなく、複数の作品でゲーム的リアリズムを実現すれば、別に作品がメタ構造である必要はないでしょう。ある特定のキャラについての二次創作作品群は、複数の作品によって複数の物語を用意することで、それら作品群を作品外からメタ視できる消費者の立場から見たゲーム的リアリズムを実現していると言えないでしょうか。

 また、単独の作品内でゲーム的リアリズムを成り立たせるとしても必ずしも「感情のメタ物語的な詐術」を使わなければならないことはないはずです。ただ、今のところ「感情のメタ物語的な詐術」しか手段を見つけていないだけで。

 まだまだ書きたいことがあるのですが、時間が無いのでまた後日。

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