コミュニケーション志向メディアを通してしか物語を語れないキャラクターたち〜扉の外

 評価が分かれているらしい電撃文庫の新人、土橋真二郎さんのデビュー作「扉の外」を読んだ感想。

扉の外 (電撃文庫)

扉の外 (電撃文庫)

 面白いじゃない! メタとしての面白さだけど。

 以下、ネタバレありです。

  • コミュニケーション志向メディアが物語を紡ぐ

 いきなり話が飛ぶのですが、動ポモ氏こと東浩紀さんはメディアをテレビや小説のように内容の流れが送信者→受信者と非対称である「コンテンツ志向メディア」と、インターネットのように内容が送受信者⇔送受信者と対称になりうる「コミュニケーション志向メディア」に分けて考えることを提案しています。

 コンテンツ志向メディアは、ひとつのパッケージをひとつの物語で占有し、それを受容者に伝達する。コミュニケーション志向メディアは、ひとつのパッケージあるいはプラットフォームの上で、まずコミュニケーションを組織し、その副産物として複数の物語を生み落とす。前者では、物語がメディアの内容(コンテンツ)そのものであるのに対して、後者では、物語はメディアの内容(コミュニケーション)の効果として生みだされるに過ぎない。いま、私たちを取りまく物語は、このような二つの異質な過程を通して生みだされているように思う。

東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生」148ページ

 で、この概念を「扉の外」に当てはめて考えてみましょう。

「扉の外」という小説作品は作者→読者と内容が一方通行な「コンテンツ志向メディア」であります。しかし同時に「扉の外」は作中で少年少女たちが対戦型ゲームを行なうメタゲーム小説でもあります。このゲームは序盤ではあまり意味が明らかにならないのですが、中盤以降コミュニケーションツールとして機能します。ということは「扉の外」の作中ゲームは「コミュニケーション志向メディア」だと考えるのが妥当です。そして中盤から終盤にかけて、この作中ゲームで行われたコミュニケーションが八カ国の興亡劇という「物語」を生み出します。それはあまり複雑なストーリーを持っていないかも知れませんが、ある程度魅力的な物語です。

 ということは、「扉の外」は「コンテンツ志向メディア」でありながら、その中で「コミュニケーション志向メディアがコミュニケーションの副産物として物語を生み落とす」ことを書いていることになります。それはつまり

 ゲーム的リアリズムは、小説を用いてゲーム的経験を、言いかえれば、コンテンツ志向メディアを用いてコミュニケーション志向メディアの経験を表現するというもうひとつの逆説的な課題に挑んでいると考えてはどうだろうか。


東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生」175ページ

東浩紀さんが力説するところの「ゲーム的リアリズム」の課題をクリアしていると言って良いのではないでしょうか。

  • ところが「キャラクターたちの物語」は

 しかし「扉の外」の真の面白さ(と私が勝手に思い込んでいるもの)はこの先にあります。

 ゲームを行っていた少年少女たちの一部、主人公の少年と3人の少女は中盤以降ゲーム全体を一段上から見下ろすメタ視点を手に入れます。ところが彼らプレイヤーキャラクターたちはゲームという「コミュニケーション志向メディア」を通してある程度魅力的な物語を生み出しながら、自分たち自身ではコミュニケーション不全に陥り、物語をまともに作ることができないのです。さらにはゲームが生みだした物語に自分たちの行動を縛られてしまう始末です。ここではゲームという「コミュニケーション志向メディア」が生んだ物語が、生身の物語より強度を持つという倒立した現象が起きているのです。

 最後に2人の少女はゲームの中の物語に飲み込まれて行き、もう1人の少女と主人公の少年は生身の物語からはじき出されます。キャラクターたちの生身のレベルでは物語は未完に終わるのです。とはいえ私はラストの空と海のシーンが結構好きなんですけどね(笑)。他の方に同意は求めませんが。

  • 完成度には疑問が残りますが

 無論ツッコミどころは沢山あります。特にメインキャラクターである少年少女たちがちょっと考えなさすぎです。薬物で思考を抑えられているという設定なのかも知れませんが、もうちょっと自分たちの置かれた状況を疑えよ!と思います。

 またキャラクターたちの動きはヘタレな少年がなぜか少女たちにモテモテというハーレム展開でして、これ自体は少年向けライトノベルの様式美なので問題ないですし(そうか?)、主人公の少年も駄目な性格ゆえに設定上の特異点になりえているのでまぁ良しと思うのですが(良いのか?)、それだけご都合主義的なお約束をやっている割には3人の少女たちのキャラを立てられていません。わざとやっているならともかく、キャラを立てようとして立てられていないのであればキャラクター小説としては致命的ではないでしょうか。

 あと超個人的には、委員長キャラが3人いながら、眼鏡成分がないのはどうかと思います。(←駄目だこいつ)

 とまぁ、キャラクターたちそのものには感情移入できなかったのですが、一方で「ゲームを通して物語が作れるのに生身では物語を作れない」というキャラクターたちの立場には大変共感しました。続編も出るそうなので読みたいと思います。2冊目でもキャラクターたちはオチのつく物語を作れないと思いますけどね! はたして私自身、「コミュニケーション志向メディア」を通して生まれてくる物語に対抗しうるだけの確かなものを持っているでありましょうか。