まんが・アニメ的リアリズムを集めるとゲーム的リアリズムになるのか
ファウスト Vol.6 SIDE―A
に掲載されている東浩紀さんの評論「ゲーム的リアリズムの誕生」を読みました。東浩紀さんによると
- 自然主義的リアリズム
- ひとつの私とひとつの物語で現実を捉える
- まんが・アニメ的リアリズム
- 複数の私と複数の物語に開かれた素材を用いて、ひとつの私とひとつの物語を描こうとする
という2つのリアリズムがあり、そこに3つ目として
- ゲーム的リアリズム
- 複数の私と複数の物語で現実を捉える
が提唱できるとしています。そして桜坂洋さんの「All You Need Is Kill」をゲーム的リアリズムによって解説しています。
この「All You Need Is Kill」の解説自体も大変面白いのですが、私の関心は途中から別の可能性へと向かっていきました。それは
まんが・アニメ的リアリズムを集めれば、それは「複数の私と複数の物語に開かれた素材を用いて、複数の私と複数の物語で現実を捉える」=「ゲーム的リアリズム」になってしまうではないか
ということです。そう考えたのには、それに該当する作品として思い当たる節があるからです。それは桜庭一樹さんのいわゆる「地方都市シリーズ」です。
桜坂さん曰く「ギャルゲー的シナリオやマルチエンドが読者に受け入れられるようになっています」
桜庭さん曰く「マルチエンドを全て含めて1つの話を作りたい」「それがゲーム的にとらえられるかも知れません」
京フェス「リアル・フィクションとは何か?」レポ
http://d.hatena.ne.jp/giolum/20051012#1129053212
「地方都市シリーズ」は設定に共通点が多く、特に「推定少女」「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」「少女には向かない職業」の3作はほとんど同じと言っていいほどです。恐らくは共通の原型から分岐して生まれた作品なのでしょう。そして結末は作品ごとに異なる訳ですが、シリーズとしてのそれらは「マルチエンドを全て含めた1つの話」になることを目指しているらしい訳です。
そしてその「マルチエンドを全て含めた1つの話」を(<虚構>ではなく、東浩紀さんの言う所の)ゲーム的に捉えると、それは「ゲーム的リアリズム」になってしまう。
…なにかあまりにも上手く話が噛み合い過ぎて、重要な欠点を見落としているような気がします。ちょっと都合が良過ぎて恐いです。あとで落ちついて考え直したいと思います。